第11章 家に帰れないと観念(かんねん)した
大きな病気をして入院するということは、相当なショックをうけるものですが
私を納得させたものの一つに、バーコードつきの腕輪(うでわ)があります。
患者を管理するためのそれをつけた瞬間(しゅんかん)観念しなさい!と言われたような気がしてました。
そして、私の主治医となった女医さんが、やってきて検査結果の報告がありました。
そのころの私は、たぶん終わりのない激痛で冷静な判断はできなくなっていたと思います。
脳の機能が低下していたのだとそう感じます。
今思うのは、わかってはいたが受け入れたくなかったのだ思います。
主治医から言われたのは
帰宅は出来ないこと
血液検査の結果から、さらに精密検査の必要性があることの説明がありました。
私は一瞬やっぱり「肋間神経痛だった?」「帰れないのか…」
いろんな気持ちがでてきて、ため息がでました。
精密検査と入院の手続きが終わって、ストレッチャーで一室に運ばれました。
救急搬送ということもあってか、血液内科の4階は空きがなく、部屋は3階の個室でした。
でも考えてみると、命の危険性が高かったことからの個室だったのだと思います。
医師やナースがかわるがわる挨拶(あいさつ)にきたけれど、顔も名前もさっぱり覚えれませんでした。
そうしている間にも、入院の準備はたんたんとすすめられていき、左右両腕に点滴用のクダが入りました。
倒れてから食事がとれていなかった私は、安心したのか?お腹が空いてきたことに気づきました。
ナースがおもむろに血管に点滴のクダを入れ始め、「食事が取れれば外れる」と説明がありました。
そして、痛みで体が動かせなかったので、体重測定に大型のハンモックが出てきました。
このところ体重は、はかっていなかったので値を聞いて「少し減ったな」と思いました。
第12章 入院生活がはじまってしまった
ゆうつになったトイレの時間
外出したあの日、久しぶりに激痛から解放(かいほう)されたと思っていたのに、痛みがまた復活してきました。
おなかにも力は入らないが、ベッド上で横になっている際にはお尻を上げることはできました。
ただ、やはりトイレはまだ行けませんでした。
ベッドからの起床は痛みが強く、特に寝がえりが思うようにいかずにかなり苦労しました。
例のごとく、トイレに行きたくなりました。
「呼び出しはイヤだな、かといってこの痛みじゃ一人で行けないし」
そう思ったとき、ふと思い出してました。
介護現場では、「一人で行ってはダメ」と言われていた方が、トイレに行き転倒するというシナリオが多くありました。
ただ、やはり誰しもどのような状況になっても、トイレに行きたいもんなんだということがよくわかります。
「あ~やっぱりだ、さしこみ便器・・・」
上手く当たっていない気がしました。
やはり、便器から尿がこぼれてベッドがぬれてしまい、シーツが取りかえになりました。
そのときは、なんだかいたたまれない気持ちでいっぱいでした。
こんな状態になって、トイレにも行けずに便器をつかってうまくできずに取りかえだなんて・・・とそう思ってショックでした。
でも、仕方ないトイレには行けないのだからそう自分に言い聞かせました。
でも、排便もこれにするのか?と思うと、どうしようもない感情がわいてきました。
トイレについて、実際に体験したことない私が今までやってきた介護っていったいなんだっただろう?
この入院において、そういったことがかなり多く、自身の介護士としてのこれまでの経験を考えてしまう状況が、これからどんどんとでてきます。
介護する側として、なにげなくしてきたことは、声かけも、対応も反省することが多かったと実感することになります。
想像(そうぞう)以上の治療がはじまった
【検査内容】
- 血液検査
- 点滴
- 輸血
- 内服薬(痛み止め=カロナール)の処方(しょほう)
とりあえず、初日が終わりました。
輸血については、主治医から注意事項(ちゅういじこう)がつげられた後、サインをもとめられました。
点滴クダから、じょじょに血液が入ってくると痛みがでてきました。
また、体が熱くなってきているのか、熱をはかるとびねつになっていました。
痛みがでないように、なんとかしようとあがいてみたけど、体を少し動かすと痛みがでました。
子どものころからぽっちゃりだった私、入院してもゆいいつの楽しみといえば、食事しかありません。
当たり前のように確実にのこさず、食べてました。
突然夜中に目がさめてしまった、「そうだ・・・病院だった」と思ったあと
輸血の後の変化なのか?頭の中を心臓の脈うちと、血液がながれる音が聞こえないといった不思議な感覚がありました。
また、夜眠れるかどうか?の不安もありました。
というのも、個室とはいえ音がよく聞こえて、聞こえて、特に夜間は足音がひびいて、けっこうにぎやかだったからです。
ごはんもちゃんと食べていたおかげか、血液の数値の回復が早く
なんと、トイレに見守りありでいってもいいと許可がおりました。
こんなにうれしいことはありませんでした。
自分の力でトイレにいけること、大事なんだなとあらためて感じました。
そして、たぶん状態がよくなったことと空きができたようで3階の病室から、4階の血液内科の病棟への移動になりました。
起床も身動きも、あいかわらずの痛みで制限はあるものの、室内は自由に動くことができるようになってきました。
ただ午前中は、特に身体が重だるいような気がしていたことで、 ベッド上で1日中テレビのチャンネルをはじくような日々が続きました。
第13章 明日は何ごともありませんように
かゆみがあらわれる
日に日に、体のかゆみがでてきていました。
原因は、と考えて思いあたるとすると
部屋の乾燥か?検査のたびに血液をとったあとのテープあとがかぶれているからなのか?
でも全身がかゆいのは、それとはちがう気がしました。
あと、この内出血はなんだろう?
身体の変化を気にしたら、きりがなくなりました。
ただ、かゆみは思ったより深刻(しんこく)で寝ているあいだも、そこに手が移動していることで、目がさめて朝起きるといったことになっていました。
かゆみは、輸血をしたことからではないか?と思います。
輸血する前の説明で、主治医がそう言っていたのでこれも仕方ないことなんだと思いました。
「はぁ~またトイレだ・・・」
おもむろにナースコールをしてからが大変で、まず起き上がるのに、わきばらの痛みで時間がかかってしまいます。
トイレに行ったあとは、立ち上がるときに急に立つとギックリ腰のような痛みと、
後ろにたおれてしまいそうになる感覚がありました。
その後はまた、わきばらの痛みにたえながら、時間をかけてベッドに横にならなければなりません。
そして、そこからあおむけになることはもっと大変でした。
なので横をむいたままでいるしかありませんでした。
輸血をしてから続くびねつとかゆみで体があつくなるせいか、寝ているときに布団があることであついと感じることもありました。
こうなると、トイレに行くのはゆうつになり、起き上がることが苦痛で気持ちがついていかなくなりました。
トイレの許可がでて、あんなにうれしかったのに「行きたくない」
かといってさしこみ便器には戻りたくない、そう思っていました。
「明日は痛みがなくなるかな?輸血もしたし、調子(ちょうし)はよくなるはず」、
そう考えるしかありませんでした。
痛い!痛くない?骨髄液(こつずいえき)の検査をする
たおれて救急搬送されてから、2日がたって、
2015年10月19日に主治医から、 「骨髄穿刺(せんし)」と「骨髄生検(せいけん)」 をすすめられました。
その説明のあと同意書にサインを求められ、同年20日、21日の実施となりました。
「どんなものなのか?」気になりました。
ネットで検索したところ、説明がかかれていました。
骨髄せんしは、「腸骨(ちょうこつ)」と呼ばれる腰の骨に針を刺して骨髄液を吸引する。腸骨から骨髄を採取できない場合は、やむを得ず、胸の「胸骨(きょうこつ)」からせんしすることもあります。
骨髄生検(せいけん)は、骨髄せんしよりもやや太い「生検針(せいけんばり)」を腸骨に刺して、骨髄組織片(こつずいそしきへん)をとります。
それと、検査当日は入浴できません。
また骨髄液を吸引したときに、痛みが発生すると書かれていました。
が、体験談をみると医師のやり方の上手下手によって、「痛み」が変わってくるとかかれていました。
痛いのはわきばらだけで十分だと、ため息がでました。
そして当日、私の前にあらわれたのは主治医ではなく、あきらかに研修医(けんしゅうい)らしき人物でした。
その医師の様子から「なんだかなれてない?あやしい?」と不安になりました。
まずは、麻酔(ますい)をするとのことで、腰のあたりにハリをさすようでした。
腰にハリがささるという状況は、ふだんの生活では考えられないことですが、
「この先生がやるんだ・・・大丈夫かな?」とあらためて思いました。
そんな不安の中だからでしょうか?横向きになって、医師の顔はみえませんが腰はひきぎみになっていました。
そして、ハリが腰にふれた瞬間(しゅんかん)「痛い‼」と言って
思わず腰をひいてにげてしまったので、麻酔ができませんでした。
また、そのとたんにわきばらに激痛が発生しました。
チャレンジ二度目は、ナースにがっつりおさえられておこなわれましたが、そこからことが終わるまでかなりの時間がかかったのは言うまでもありません。
数分ほどで、麻酔(ますい)がきいてきたのですが、わきばらの痛みは続いてました。
そして担当医から、「痛いときは言ってください」と言われました。
どんな痛いことがあるのか?今でも十分痛いと感じながら、口にはだしませんでした。
でも、「いまからこういう風にします」という説明がなかったので、心がまえができてはおらず「作業の合図(あいず)」もなかったので
「痛い‼」と声をあげてしまいました。
そのため、再度麻酔を追加になりました。
そして麻酔がきいてきて、感覚がにぶくなってきたと感じたところで、
今も思いだすとみぶるいしますが、骨髄液の吸引の際にはそれほど感じませんでしたが、組織片のさいしゅの際には、
骨がけずられるなんとも言えない微妙な感覚になりました。
みなさんに想像(そうぞう)していただくなら、むし歯のときけずられるときのような感覚が、それに近いかと思います。
ちなみに、組織片の採取は、主治医が行ないました。
その点は、安心しましたがことがことだけに
終了後は、かなりの精神的な衝撃(しょうげき)もあってか、しばらくは動けずわきばらの痛みもあってか、
涙が止まりませんでした。
第14章 ついに病気の正体がみえたとき
骨髄検査の結果がでると家族同席の上で、主治医から話がありました。
検査を通して
「急性リンパ性白血病」その中でも「フィラデルフィア型」と言われましたが、私にとってそれまでは「肋間神経痛じゃない?」と思っていたので聞いたとたん、
これからのこと、以前のようにはできないことなどなど…思いがあふれて止まらなくなりました。
がまんはしたのですが、涙が止まりません。
注意事項が話される中で、納得(なっとく)できない私がいました。
「どうして‼いままで40年以上血液作れてたのに、なんで」もうなんでがとまりませんでした。
そして、一番ショックに思えたのは「介護の仕事できなくなるんだ」ということでした。
そのときは、たぶん何もかもが人生が終わってしまったという認識(にんしき)でしたから、もう介護の仕事ができないになってしまったんだなと思います。
注意事項は、感染症を発症しやすく 注意しなければならないことがたくさんあること、貧血症状は今後も出ること、
また、抗がん剤などの内服治療を行うこと、
そして、もう自身で血液を作りだすことができないこと
最終的には骨髄移植をしなければならないこと
すべて聞いたうえで、私は気持ちをきりかえなければばらないんだなと、そう思いました。
ただ永遠と続くこのわきばらの痛みとは、さよならできるのはホントによかったと思いました。
第15章 人生のおわりを感じたとき
人はもうこれ以上生きられないよと言われたとき、これから起きることに対してどう考え、受け入れていくことになるのでしょうか?
もし、そうなったとき想像(そうぞう)ができますか?
「私は大丈夫」と思いませんでしたか?
私も子どもの頃から、「元気だったので病気なんて」と思ってましたから想像もしていないことが起きてしまって、はじめて考えることが多くなりました。
ただ、そうなってしまった以上は、立ち止まることはできません。
ふと、バレーバールにあけくれていたときのことを思いだしました。
結局、ボールが床に落ちた時点で、終わったこと
つぎへと気持ちを整理(せいり)して今度は相手から点をとる、
それと同じように「気持ちをきりかえることが必要なんだな」と、そう思いました。
そう考えることで、何より家族を安心させることができると感じます。
そして、あなたは家族がそのような状況になったときに、支えていくことができるでしょうか?
すぐに受け入れることはむずかしいことですが、
何かの縁(えん)で一緒になり、一緒の時間をすごしてきた、その人に自然とより沿っていく、そんな関係であっていただきたいと切(せつ)に願います。
さてここからが、この病気のスタート地点になります。
その後は、ぞくぞくと本性がでてきます。
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