第35章 私のたくらみ
毎朝毎朝、
1日に1回はかならずおとずれる、日常のきまりきった行いとでもいうように
いつも同じ時間に朝、夕とやってきます。
そして、ときには団体で部屋にやってきます。
どこの病院でもみられる光景(こうけい)でしょうか?
その時間は、私にとってはただの苦痛な時間でしかありませんでした。
できれば、こばみたいものでもありました。
それというのも、この毎回同じ時間ということと、毎回マニュアルにあるかのように聞かれる言葉
どうですか?と変わりない?
ときには、ちがったきき方をする医師はいないのか?と思うほど定着(ていちゃく)している言葉は、
やさしさのないただの社交辞令(しゃこうじれい)にかきこえず、耳ざわりでしか感じなかったなかったからです。
そして、私が一番にハラが立ったのが
このころの私のとってのお友達がテレビだったことですが、この回診とやらによくよく邪魔(じゃま)されていたからです。
入院しているものにとってのテレビは、時間帯によってはおもしろくないものもありますが、カチャカチャチャンネルをかえて
自分なりにおもしろいものを見るけるもので、私がちょうどこのころハマっていたのが韓流ドラマでした。
そのころは、『太陽を抱く月』『馬医』などを見入っていました。
日本でいうところの水戸黄門なる時代劇(じだいげき)のように、悪を退治(たいじ)してほぼハッピーエンドなのですが、
結末がわかっていても、展開(てんかい)が早く見のがせないのが見ていて引きつけられるところかなと思います。
いつも、そのちょうどいいクライマックス5分前の場面で、部屋にはいってくるという境地(きょうち)
あ~いいとこなのに!
たまにはゆっくりみさせてよ!
何度となくそう思いました。
入院生活の大半はリハビリのために階段にいたり、テレビとにらめっこだったので、
この場面はみのがすと、さきほどもいったように次の日の内容がよくわからないといった状況になります。
まあ、ときには検査でしぶしぶテレビを消して検査室にむかわなければならないこともありましたが、
毎日かかさず、みてました。
見のがしてしまった場面は、その後みれていないので今でも気になっています。
私の入院した病院はテレビは、ありがたいことに見放題(みほうだい)でした。
といっても、月に定額(ていがく)をはらいますがその点では、ホントによかったと思います。
私にとって、というようり入院しているものにとってのテレビは、情報をくれたり、気分をかえてくれる大事な存在です。
ただ、このいわゆる回診ですが、この回診には意味があるようです。
● 病棟医(びょうとうい)や主治医、診療部門の責任者が日常業務(にちじょうぎょうむ)として担当患者を診察(しんさつ)して回ることで診察状況を知り、チェックする。
● 医師同士が、互いの担当患者の状況を把握する(当直帯での急変など、担当以外の患者を診察する機会は少なくない)。
● 教授・医長など経験を積んだ医師が症例を前にして実地に研修医など若い医師を教育する機会を持つ。
私にとっての回診は、もう少し時間を大事に患者と向き合う時間にあてたほうがいいのでは?と思っていました。
いつも、教授とやらがくる回診で彼が意図(いと)しない返答をするのが私はひそかに楽しみでした。
教授は、たぶん主治医からききかじってきたことをつまんで話をするので問題が解決したかのようにいってくることが多々あったので、
それに対して、まだ解決してないことをつげると
まわりのお付きの医師たちがオドオドしはじめるので、それをみるのが楽しみでした。
ただ、毎回毎回はうんざりだったのでここで、私はいいことを思いつきました。
ある程度、回診の時間がきまっていることを逆手(さかて)にとって、その時間をどうにかできないか?と、
朝の回診はなかなかさけることはできませんが、夕方は積極的にリハビリという名目(めいもく)で、階段リハビリをしようと、考えつきました。
階段リハビリは、夕食ギリギリまでかかるように4階から8階までいったあと
1階コンビニまでいき、4階まで調子によいときには階段で帰ってくるというものです。
コンビニにいくという目的があるので、4階から8階までのぼりは大変ですがゴホウビがもらえると思えば、足は前に進みました。
こういうのも、ありだよね?と思ってました。
ときには気分をかえることも必要かなと、思ってました。
第36章 じょじょに深まる主治医との亀裂(きれつ)
今でもこれは私にとってきつい話
このあとの話は、こうして書くこともさけたい部分でしたが、同じようにがんの治療をした方々の中にはこうした思いをした方もいらっしゃるにちがいないと
そう思ったので、書くことにしました。
今でも、この気持ちはうまく整理(せいり)できません。
ただ、こういう場面ががん治療にはつきものであることを知ってほしいと思います。
私の中では、もっともその時のことは思い出したくないものですが、主治医からサラリと聞かれたことがことのはじめでした。
一時退院をむかえるにあたっての話でしたが、今思うとあのときなぜその言葉を発したのか?
何も前置(まえお)きなしで、主治医が話をしたのはなぜか?
ようするに、治療の過程(かてい)でおきることを話したのでは?と想像しなければならなかったので、
今思うとそれは治療の段階でおきることの説明だと考えられますが、私は超能力者じゃないので
ちゃんと説明してもらわないとわからないと正直ハラがたちました。
そういったことは、普通余命宣告(よめい)と同じように慎重(しんちょう)にするものではないのか?と私は思うのです。
まったく、その配慮(はいりょ)はまったく感じられませんでした。
主治医は、こういいました。
「お子さんの予定は?」
私は、「予定はないです」とそう答えるしかありませんでした。
この言葉は、私にとってはせめられているように感じました。
その歳まで、こどもを産んでないなんてそう言われているように感じました。
この歳まで、がむしゃらに働いてきました。
忙しくてそれどころではなかったこともありますが、それは建前(たてまえ)で
ホントは、ちゃんとむきあうことがこわかったのでしょうか?
ただ、日々の生活もやっとに加えて、姑との関係もあり子供をさずかるということに自信がもてなかったことも影響したものと思います。
今、こうして問題に直面したのはむきあう時間を与えられたのだと感じます。
でも、ほんとはホしかった。
それだけど私には、チャンスがなかった、
チャンスに恵(めぐ)まれなかった。
そんな風に思った瞬間(しゅんかん)に「白血病」の宣告(せんこく)をされたときのことも思い出されて
なんとも言えない、むなしさやせつなさといった感情があふれてくるのを感じました。
言葉はつぎつぎ主治医が続けていきますが、何も聞こえなくなりました。
このとき、主治医がいっていたのは抗がん剤や放射線治療を行うことで体内の臓器(ぞうき)がそのままではいられないこと
つまりは、健康な状態ではなくなることも考えられるといった内容だと思いますがそういった順番で説明はされませんでした。
続けられた言葉です。
治療を受けると、妊娠は難しくなり可能性はゼロになるといわれました。
ゼロだって?確かに年齢的(ねんれいてき)にもきついのはわかってる、
治療の過程で子どもができても、私の命は保証(ほしょう)ができないから治療を優先するとそう言われました。
命優先(いのちゆうせん)もわかる、わかるけど今の私にはそんな言葉はほしくはありませんでした。
私は主治医としてこう思うけど、あなたはそれに対してどう思いますか?そう聞いてほしかった。
それとただ、私がこれから生きていくための意味する言葉、ボジティブな言葉がほしかったと思います。
そして、私はそのとき主治医のことについて、同じ女性なのに
そういった話をするときの態度(たいど)や言葉にたいしてハラが立って仕方がなかったことも含めて
なみだが、とまらなくなりました。
あきらめる?あきらめない?の決断
私の今までは、 忙しい毎日の中でのことであの時は重要と考えてはいなかったことが、こんな形で考える時間がやってきて、
今後こどもができる可能性は、ゼロと言われてしまった。
主治医から話があったあとは、なみだが止まらなくて思考が停止してしまいましたが、
諦めたくないかも・・・
自分に素直(すなお)にそう思いました。
11月10日、主治医から今後のことを考えておき、ひとまずは産婦人科へ行ってそれらの話をして下さいと念(ねん)をおされました。
しばらくして、昼食時に検査依頼を伝えにナースの訪問がありました。
食事を終えて、産婦人科のある病棟の検査室にむかいました。
こうして、検査室にはじめて入るとやはり真っ先に担当医の顔やしぐさ、
声のトーンを聞いてこの先生は大丈夫かどうか?
自分なりにチェックをするクセがついてしまいました。
今回の差婦人科の担当医は?でした。
やっぱり思った通り産婦人科の女医さんは、ちゃんとわかりやすく言葉をえらびながら説明をして下さいました。
今後、私は血液内の血小板の数値が下がることから、出血した場合大量出血になる可能性があるとのことで、月経を止めなければならないことの話がありました。
やっぱり、この先生ならこれからのこと聞いてみたいと思いました。
私は、なみだをこらえながら主治医から、これからの妊娠の可能性はゼロになるといわれたことを伝え、それは事実なのかどうか?
その返答は、ゼロではないとのことでした。
これから、私が投与(とうよ)されるであろう抗がん剤の種類によってもかわってくること、
卵子保存といった手段(しゅだん)も考えられると話がありました。
ちょっとホッとしました。
その辺もふくめて今の私の卵子の状態をチェックしたいとのことで、検体(けんたい)がとられました。
検査は、痛みがありました。
結果はすぐわかるもので、年齢的なものからいえば妊娠する確率(かくりつ)は高くはないが、今は病変も異常もないとの診断結果でした。
検査がおわって病室に戻りしばらくすると、主治医がやってきて今後のことを聞かれました。
主治医と産婦人科の医師の見解は逆の内容であったことを伝えました。
ちょっとおもしろくなかったのか、表情がかわったと思ったのですが
伝えるやいなや、卵子保存をするということが、白血病の治療遅延(ちりょうちえん)が発生するのですすめないそう、切りかえされました。
私の治療方針(ちりょうほうしん)に逆らうの?みたいな感じでした。
ただ、このことについてはこればかりは、一人では決められないことだったので、主人にも相談してから返答することを伝えました。
第37章 やっぱりたべるのことは特別
11月10、11日とプレドニゾロンが朝9錠のみ、
12日からは5錠、
15日から1.5錠とへりはじめました。
やはり強い薬がへるのは、精神的にも身体的にも楽になります。
ただ、なんとなく胃がもたれている気がしていました。
それに、腸(ちょう)が急に活発(かっぱつ)に動きはじめたようで、日に何度もトイレにいくようになりました。
薬がへったことで、便秘の副作用が軽減(けいげん)したせいかもしれません。
けっこう、 これはこれで、
きついかもしれないと思っていました。
そんな最中(さいちゅう)に思いついたことが、一時退院に向けてちょっとこの自分の荷物を整理(せいり)して捨てて行こうかと思いました。
ふと、私が死んだらいらなくなるものだよな?
この荷物どうにかしないといけないかな?
ある程度、すてた方がいいのかな?
イヤ、記念(きねん)になりそうだから、とっておくべきかな?
などなど、自問自答(じもんじとう)してました。
たぶん片づけるということは、今も私にとっては死に行くことをみとめること結のように感じてしまい、生にすがりたい思いと、
いさぎよくすっぱりとしたい思いと、結論(けつろん)がでませんでした。
1時退院したら、 まず私がしたかったことといえば、ぽっちゃりさんの特権(とっけん)であるおいしいものを今のうちに沢山食べようでした。
さて何を食べようかな?
今からワクワクしてきました。
こうして病気になる前は、よく行きつけのお酒の肴(さかな)がおいしい近所の居酒屋に伺っていました。
日々、介護現場などでかかえた不満(ふまん)を解消する気分転換(きぶんてんかん)のために通っていました。
ほんと、お刺身(さしみ)やヤキトリが絶品(ぜっぴん)で考えるとすぐにでも行きたくなるほど執心(しゅうしん)してました。
この想像はやめられないし、やめたくないと、
やっぱり、私は食いしん坊なんだなと思いました。
第38章 はい!やってきました
11月11日、また痛いやつ?を明日やるのだということで話がありました。
今日はとりあえず、髄腔内注射(髄腔内注射)です。
髄腔内注射とは
脳や脊髄(せきずい)の中枢神経(ちゅうすうしんけい)には、点滴や内服による投与では抗がん剤が届きにくいため、 背中から細い針や管(くだ)を挿入して中枢神経系に直接抗がん剤を投与することです。
もしかして、やな予感が・・・あ゛~やっぱりぃ←ほんとにこんな感じです。
そう、みなさん想像の通り、研修医さんの登場です。
また麻酔からはじまる、私の大混乱(さいこんらん)の時間へようこそ!
痛いのかな?
え?‼研修医さんそのまま担当するの?
仕方ないのかと観念(かんねん)しました。
でも、思ってたよりも注入するだけだったので以外にそれほどの痛みはありませんでした。
何とか順調(じゅんちょう)らしく何も感じないまま、主治医が顔をのぞかせ声をかけてきました。
無事終了したらしく、1時間ほど横になって頭側を低くし寝ているようにいわれました。
頭をさげないとかなりな割合で、気持ちが悪くめまいがおきるとのことでした。
気持ちが悪くなるといったことはなく、時間が経過していきました。
その翌日、夜中と明け方のトイレは腰がこわばり、明らかに腰痛を感じてました。
ちょっと、 起きあがるのがしんどいと感じていたので カロナール(痛み止め)をのみました。
しばらくたっても、薬はきいてきません。
天気や気圧といったものが関係しているのか?
はたまた、このところの立て続いた検査のせいなのか?
その状態が2日続きました。
そしてワキバラのうずきも復活したようでした。
11月12日、今日はまたまた痛い腰椎穿刺(ようついせんし)検査でした。
あ゛~しかも研修医さんでした。
麻酔(ますい)の注射やっぱり痛いなぁ~と思ったのですが、その後はそのまま続行でした。
え?そのまま続行するの?
そんな不安の中『痛い‼』と大声が出ました。
前回の主治医のときとは、あきらかに感じなかった痛みがでました。
やっぱり上手(うま)い下手(へた)下手?ってあるのだなと
それとも経験値が少ない結果なのか?
ずっと痛くて声を出していたので、最終的には主治医が変わってとり終わりました。
この後も、こういった検査続くのだろうな…やだなと思っていました。
けっこう検査はストレスだなと感じていたところ、また11月14日の昼食時と夕食後と続けてチカチカする、例の片頭痛がやってきました。
今回は、どちらも20分程度の短時間の発生でしたが、頭痛はともなわなかったので助かりました。
ただヒンパンにおきるのは、気持ちがゲンナリしました。
これは、副作用なのか?ストレスで発生したのか?
いずれにしても、軽くすんでほしいと感じていました。
第39章 もっともおそれていたこと発生
入院してから1か月ほどがたって、検査が続いたこと
とくに産婦人科のことについては、治療の説明をしもう少し歩調(ほちょう)をあわせてほしいと感じはじめました。
私は、主治医に対してあきらかに信頼という点をなくしていました。
というのも、主治医は女医であること
つまりは、同じ女性であるという点でわかってもらえると
私は過信(かしん)していた部分が大きかったのですが、現実はそうではなかったのです。
彼女はまだ若いし、結婚もしていないこと
医師としてのキャリアはあるのかもしれないけれど、同じ1人の女性として
人としてどうなんだろうと、そう思ってしまいました。
よく私も、介護現場で相談員の仕事をしていたときに
ご利用者の方からいわれたことがありました。
『あなた結婚は?』
『お子さんは?』
まだ私も若かったころは、結婚も、もちろんこどももいませんでした。
私の答えに対してその方は『じゃわからないわね』といわれました。
そいったことが多く見られたことで、どうしても経験値(けいけんち)ではカバーできないものがあると思ったものです。
人は、同じ境遇にあるものに対してある意味信頼がうまれ、心をゆるすことができるものですが、
若かった私は、そういったことの理解(りかい)がなかなかできていませんでした。
最近の私は、見た目からして病気をしているとわかる外見(がいけん)をしているので、
『あなたなんか病気したの?』
と聞かれることが多くなりました。
『白血病をわずらいました』
そう答えると、『わかってくれる人がいる』ときりかえされることになって来ています。
今回の私の中では、主治医との間にみぞのようなものができたということが明確でした。
そう思ってしまうと、今までのことがすべてその目線でみえてきてしまうものであーいうこともあった、
こーゆうこともあった、
そんな風にしか思えなくなってきてしまいました。
これは、大きな病気を治療するうえではかなりなマイナスになるのでは?とシロウトめに見ても思うことではないか?
そう感じます。
私の母がいうには、医者は名医といわれる人はひとにぎりであとは
頭のいい人たちが、お勉強だけできて人に対しての思いやりだったり、
言葉づかいだったりといったことは、できない人が多いという話をしてました。
ちなみに、私の母はナースです。
ほんとにそうかもしれない、
でもそんなんで、病気の人によりそって治療なんてできるのか?と
治療を受ける身としては、ほんとに心ぼそい話だなと思ってしまいました。
この主治医に私の命をあずけて大丈夫なのか?と、そう思いました。
実際に、もしみなさんが命をあずける治療をする場合にどんな医師をのぞみますか?
パーフェクトではなくても、せめて人情のある、
相談ができる、
説明してくれる、
そんな医師であってほしいし、私は命をナがられるためのたたかいならそのたたかいにかてるだけのメンタル面のサポートをしてもらえる
そういう医師と病の克服(こくふく)に納得いくまで、一緒にあーでもない
こーでもないと話をして
チャレンジできるほうが、よっぽど後悔(こうかい)がないのにとそう思います。
これを読まれたお医者のみなさまは、めんどうくさい患者(かんじゃ)と思われるかもしれません。
でも私は、医師とはそうであってほしいとのぞみます。
治療は長期戦(ちょうきせん)になるかもしれません。
この命をあずけるのですから、その機会(きかい)を大事につきあってほしいと願います。
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