一時退院期間に
白血病になって、さまざまなことが起きていく中でたくさんのことを考える時間が与えられたのだと思いました。
家族からは、「今までガンバりすぎたのだからちょっと楽して休めばいい」と言われて
その気になってみましたが、根が貧乏性(びんぼうしょう)で、入院していても何かをやっていないと落ち着かないとなっていました。
そう何かといっても何もないので、逆にあせります。
働けなくてこうして毎日お金が出ていく状況をどうしたらいいのか?
でも考えても、ネットの情報をみてもいいアイディアがうかばずあせる、
治療中にもかかわらず、そういったはがゆい時間をあじわっていました。
そういえば今まで、がむしゃらにやってきてゆっくりと時間をもらってといったことがそういえばなく、ひたすら忙しかったなと感じます。
みなさんの生活はどんなですか?
毎日、当たり前のように同じルーティーンになっていて心のゆとりなんてなかったというのが本当のところだった経験があったりしませんか?
私も、ただただ一生懸命(いっしょうけんめい)だっただけなんですけど
ここまで生きてきて、『ストップ!』と言われてしまったようなそして、どうしていいのか?わからなくなってしまったような状態でした。
こうしたとき人は、たぶんまわりの人の言葉で少しでも気持ちが楽になるのだと感じます。
私は、同じように白血病で入院されていた方にそのとき言われて今でも忘れられずにココロにとどめている言葉があります。
それは、それからの私の治療において重要な言葉として存在していきます。
その方はこうおっしゃいました。
『私たちはもう過去に戻ることはできない、だから前に進むしかないのよね』
力強いその言葉をいいながら私をそっと抱きしめて下さいました。
この言葉でその後の私は何度も何度も、すくわれました。
考えても答えがでない、
考えても仕方ない、
泣いても解決(かいけつ)しない、
そう前に進むしかないのだとずっと自分に言い聞かせることにしました。
たぶん二度とお会いできないと思うのでここで、そのその方にお礼が言いたいです。
あのときは、こんなに大事な力強い言葉を下さってありがとうございましたと・・・
予定前に入院か!?
きのうのお願いがきいたのか?朝には熱が下がっていました。
今日はきめられていた通院日、熱はさがってるからすぐにでも入院にはならないはずと思っていました。
スケジュールは、産婦人科の診察(しんさつ)をうけてから、血液内科の主治医(しゅじい)のところに行くようになっていました。
通院は基本的には夫がいれば車で送ってもらいますが、いない時は電車や徒歩で約1時間ほどかけていくことになります。
けっこう、病院のあるもより駅からの徒歩の距離(きょり)はありますが、なんとか今日もいかなければなりません。
きのうの今日でちょっと不安もありますが、自宅をでてもよりの駅から無事に病院までたどりつくことができました。
到着すると、まち時間があるのでどうしてもいろいろ考えてしまいます。
産婦人科の待合室(まちあいしつ)には、おなかの大きな女性が順番まちをしている姿がありました。
その女性を横目でみながら、
このいまの私はまさに岐路(きろ)にたたされていて、一歩ふみだすだけでなにもかもかわってしまう状態になっていることはまちがいないことで、
できれば、普通に生活をして子供をさずかってという当たり前と思っていたそんな人生もあったのではないか?とか、
他人がうらやましいなとか、
私には縁がなくなってしまったなぁ?といったことを思いながら、その場にすわっていました。
ただ、こうしてうなだれていても仕方ありません、現実は目の前にあってさけることはできませんでしたから。
けっこうまたされるかと思いましたが、早めによばれて病室にはいることができました。
そして、前回の検査結果がまっていました。
さて結果は?
担当医からの言葉『やはり、妊娠するための子宮の機能的には最低限の数値ですね。でも以前にもいいましたが可能性としてはゼロではないのです。さて紹介状をどうしましょうか?』
と話がありました。
紹介状とは、今回の卵子保存をするために別のクリニックといったところにいかなければならないので、その病院への紹介状のことです。
私のなかでは、わかっていたことでしたがやはりそうして検査結果というかたちでしめされたことにショックはかくせないでいました。
仕事が忙しいから、
まだ働かなくては、
こども?それどころではない、
もう少し落ちついたら、
そんなことをながいこと考えていたのだと思いますが、気づいたら10年以上がたち40代になっていました。
その結果が、こうしてでてしまったのだと思いました。
私の中でそんなことを考えてましたが、なんだか担当医はいそいでいるからすぐにでも答えをといった雰囲気(ふんいき)たっだので
私には考えさせてもらえる時間はないのだと感じました。
そして私が答えられずにいると、担当医から『とりあえず病院にもう一度、明日にでも紹介状をとりにきてください』といわれました。
明日も病院いくる?ということが想像できてなかった私は、思わず
『いまの私には、明日また病院に一人でくるといったそんな体力はないです』と答えてました。
すると担当医から、『では郵送で、土曜日にはつくと思います』ということで返答がありました。
この紹介状なるものですが、意外にお金がかかります。
病院や医師によってもちがうのだと思いますが、5000円ほどかかりました。
いまの私にはけっこうな痛手でした。
問題なのは、これからあとのことでした。
それは紹介状といってもすすめてくれる病院はなく、どうやら自力で病院をさがして連絡をし通院しての一連のことをしなければならないようで、
はたして今の私にできるのか?といったことでした。
そんなことを頭の中で考えながら、つぎの主治医の診察をうけにいきました。
なんでそういったことが病院内でできないのだろうか?とふと残念に思っていたところに主治医の診察になりました。
主治医には、産婦人科でいわれたことをそのまま伝えました。
その話は、子宮の機能としては必ずしも妊娠はむずかしいということではないことと、
紹介状をもらったこと、
それらを伝えました。
とりあえず、熱もさがっていたため今回はすぐ入院にはなりませんでした。
つぎの入院は、その卵子保存のことを解決してからになることから数日したら経過をきくために連絡を主治医からいれるとのことでした。
私は内心、産婦人科の担当医から『妊娠の可能性がゼロではない』といわれたことを主治医に伝えたたときに、
『どうだ!ゼロじゃなかっんたぞ』
といってしまいそうでした。
口にはだしませんでしたが、それぐらい私のなかではくやしいと思ったのと、
まだ若いこの主治医にはわからないことなんだという思いと、やはり傷ついていたのだと感じます。
このセンタクははたしてよかったのかどうか?何年かたったいまでも、
別のセンタクシがあったのではないか?
もう終わってしまったことなのに、思いだしては考えたりしています。
まだ家にいたい
無事に帰宅と思った矢先(やさき)に、それはおきました。
それは、かなり強い寒気を感じフルえてしまうので布団にはいり体温をはかったところ、
なんと、体温計の数値が39.3℃をさしているではありませんか。
この熱は、連続して通院して疲れたせいなのか?
でも、セカンドオピニオンの際の熱がでたのは翌日にはさがっていたし、
ただあまりの高温におどろきとともに、ピーンと気をはっていたものが途切れてしまった気がしました。
はかりまちがいかと思い再度はかってみましたが、変わらずでした。
しかたなく、病院からもらっていたカロナール錠(痛み止め、熱さまし)をのんで気を失うようにねむりにつきました。
そうして翌日にはまた、熱がさがっていて家事もこなすことができましたが、台所に長くたち続けることが大変で、
休みながらでしか、できなくなっていました。
このだるさはあるものの、熱いがい湿疹(しっしん)もおとなしい状況であったのでつい無理をしてしまう、
こんなんで卵子保存にするために自力でなんてできるるわけない!
かといって協力してくれる人がいないでは、とても無理だと感じました。
あきめるしかないのか・・・
どう考えてみても、どうすることもできないハガユサに私は病院からの連絡があるまで悩むことになりました。
どうしようみつけられない、
身体も思うようには動けない、
とりあえず、調べなければなりません。
今の世の中ほんとに便利になりました、ネットで『卵子保存』と検索しただけで病院の情報もみることができて、
比較も簡単にできること、その情報をみてどうするのか?の決断もできるといったメリットがあります。
卵子保存を行っている病院は多々ありますが、やはり距離がないわけではなく一人で電車を乗りついでいくことや、
この体力でやり通せるかもさだかではありませんでした。
そして、なにより私が目にとめたのが維持費(いじひ)なるもの年更新で100万円かかるところもあるとのことでした。
とてもとても、自身の医療費もかかるだろうところにこの維持費とは・・・
悲しいかな、気持ちをおしこめてあきらめるしかありませんでした。
もし、そういったことに補助金や保険といったお金の面での負担軽減(ふたんっけいげん)や
病院をさがしてくれたり付きそいなど協力してくれる人がいたのなら、このことはちがっていたのかもしれません。
私には、そのチャンスはありませんでした。
あいかわらず熱発は続いていましたが、これで病院に連絡をしたら入院が前倒しになるだろうなとしか考えられず、
卵子保存をあきらめたショックもあり、『病気をなおすことなどどうでもいい』と思うようになっていました。
それに、この先のことを考えると家に帰ってこれることもそうそうないだろうと思いました。
そして主治医から連絡が入ります、開口一番にこういいました。
『入院手続きしてるけど、日程はかわりはないですか?』
普通社交辞令(しゃこうじれい)でも、『体調はどうですか?』とか、
『お変わりないですか?』とか、
聞くのが当たり前だと思っていたけど、それもないんだと思いました。
そして、『卵子保存の方はどうか?』と切りだされ
とにかく返答にこまった私は、おしだまったままでした。
このいまの私の状態がどんなものであるのか?主治医ならば理解して助言して・・・無理だなと思いました。
それにしても頭にくる!
こんな状態でできるわけない!
そういってやりたかったというのが、本音でした。
実際はぶっきらぼうに、てきとうに返答して電話をきりました。
このあとは何とも言えないムナシサとセツナサで、なみだが止まらなくなりました。
自分のおかれた環境(かんきょう)と、
これから治療をすすめていくのがあの主治医であること、
若い医師だからなのか?とか、
あたりさわりのない、よりそってもらえない
この関係ではたして病気を克服できるのか?とか、
こんなものなのか?といった思いでいっぱいになりました。
病院にもどりたくない、これが夢であったのならと思わないことはありませんでした。
結局、体調はよくないまま次の入院日をまつことになりました。
高熱のすえに
思わぬ展開
病院にもどる約束の日がきました。
熱は、変わらず突発的(とっぱつてき)に出ていましたが朝からバタバタ病院にむかう準備をしてました。
ただ、いっこうに準備がすすみません。
もっていくものを考えていると、何かと探し始めるとあれもこれもともっていきたくなってしまいキリがなくなってしまいました。
でも一人で電車に乗っては、持ち物の量に限界もあるのでもっていけるだけと思ってえらんでいると
あっという間に出発の時間がきました。
つぎはいつ帰ってこれるだろう・・・
そんな思いをかかえながら、病院へと足をはこびました。
病院のあるもより駅からけっこう歩くと距離があって、というより自分の体力がおちてきているのでそう感じるのかもしれませんが遠いなぁと感じました。
ちょっと休みたい、疲れてきたなと思ったときやっと目前に病院が見えてきました。
受付で入院の手続きをして、エレベーターで4階へあがります。
これから始まるのかと、だいぶ不安でいっぱいの状態で部屋の準備ができるまでラウンジでしばらく、ぼーっとまちました。
ここ数日間の帰宅してからのことや卵子保存ができなかったこと、
これからはじめられる治療のことなどを考えていたら、ナースによばれて無菌室へと案内されました。
前回まで、入院していた部屋とはちがってその部屋は何かとてもせまく感じました。
それといってみれば、モルモットを飼育(しいく)する独特(どくとく)な部屋の雰囲気とでもいえるようなそんなイメージでした。
気のせいかもしれないと考えなおして、これからの治療にそなえて着がえをしました。
着がえがおわったころ、ナースが登場しいつものようにチェックをはじめました。
近日中の熱発、むくみ、かゆみ、背腰部痛などの話をしました。
これらを先日電話があったときに伝えていたら、入院になっていたのでは?と思うようなことでしたが、やはり今日も38℃をこえる状態でした。
その日をさかいにしてことは予想外の事態になっていきました。
朝食後は3日ほど、かなりの寒気に襲われました。
そしてその後、熱は40℃を超えるようになりすぐに解熱剤(げねつざい)、
抗菌剤(こうきんざい)、
水分栄養補給のためと、
途ぎれることなく、点滴が続いていきました。
その日から私の体には、ほぼ終日をとわず寒気と
だるさ、
熱、
息苦しさに夜間はねむれず、そのうち、かゆみも併発(へいはつ)して発生しました。
そして、とくになんとなくおなかの部分にハレを感じるようになりかなり苦しい状態になっていき、
思った以上に身体がむくんでいることがわかるようになりました。
そのむくみとやらは、やはりよくないことらしく日々めにみえるものとして体重がふえていきました。
当初は、55キロほどでしたがいきついた先は68キロになってました。
どうやら、大変な状態になったようでナースがあわただしく移動の準備をはじめ無菌室から
ナースステーションの近くのドアのない部屋にそくうつりました。
それからというもの、利尿剤(りにょうざい)を投与され熱で意識朦朧(いしきもうろう)の中廊下のさきのトイレには行けずに、
なんどもなんどもトイレに行きたくなりながら、ベッド横のポータブルトイレに座り込み尿を出すといったことを昼夜とわずするようになりました。
そういうときには、おなかもゆるくなるのか下痢が続いてきました。
ほんとにどっちも止まらない、
下痢止めもかゆみどめもだしてほしいと伝えているが出してもらえない、
そうしてひたすら時間がすぎるのをまちました。
その間は入浴もできず、とにかく大量の汗にまみれていて、寒気がしてをくりかえしていたのでべたついたカミの毛が顔にまとわりついてました。
見た目は、こわいかな落ち武者(おちむしゃ)そのものかと思うほどでした。
その晩は息苦しさが最高潮(さいこうちょう)だったためか、気力でベッドからおき上がって便座にすわりトイレをすませると、
かなり息苦しくなってしまいベッドにあがれず、上半身だけベッドに身をあずける感じになったままの状態で倒れこんでいました。
そのままあらい息づかいが続いて、やがてナースによって酸素チューブがつけられました。
それでも、息苦しいのは続いていてどうにかして自分で苦しくないよう態勢(たいせい)をかえてみたのですが、
うえにむくことはもっとも苦しくてむけないため、横になってみたのですが少しはましになりました。
私は、まだ意識は朦朧(もうろう)としていて自分が生きているのか?どうかさえもわからないような状態になっていました。
『できればこのまま死なせてほしい』
そう思いはじめていた?それともつぶやいていたのかもしれませんが、やがて自然となみだがこぼれて、とまらなくなっていきました。
それでもおなかはすくので、食事がはこばれてくるとベッドで横になった顔のそばにオゼンをおいて、口元に時間をかけては食べものをはこびました。
ときに食べられずに、おなかをすかせていることもありました。
ときにやってくるすごい寒気をこらえ、つぎにくるであろう暑苦しい時間にがまんしなければなりませんでした。
いまもよく思うことですが『いつまで続くんだろう』と思わずにはいられない状況でした。
なにがおきてる?
そうして少しづつ状態がよくなってきたころ、無事ポータブルトイレから腕をのばした先の洗面のところで手洗いができたのですが、
その日はトイレをすませたあと、なんとなく気になって鏡にうつった自分の顔をのぞいてみました。
なんとそこにはおどろいたことに、かなりハレアガって赤い顔をした私がうつっていました。
また、かなりの乾燥肌になっているのか?ところどころ皮がはがれている状態でした。
あまりのひどさに別人かと思うほどのみてくれに、途方にくれながらもベッドに倒れこみました。
あれは私の顔だった?
なんでそんな状態になってしまっているのか?
苦しんだ結果がそれだとしたら、あまりにもひどいしうちではないか?
いろいろ考えがうかんでは消えてをくりかえして、時間がすぎていきました。
私の両腕(りょううで)は、毎回の血液検査の影響で上腕(じょうわん)をしばられるため、うっ血していました。
採血(さいけつ)後のテープあとも時間に限らず、かぶれて変色していました。
そしてそのテープあとのかぶれはかゆくなり、ピンクから赤、やがてどす黒く変色していきました。
そういった状態の変化に私は、目をむけることができなくなっていきます。
そして変色は全身に及んでいき、かゆみの部分をかけばひどくなっていくことで、かなりの我慢が必要でした。
また採血時、ハリ挿入時は悲鳴をあげたくなるほどの痛みがでてきました。
みなさんにイメージしてもらうとしたら、イクラに針を刺した時の音『プチっ』ていう音がする感じに痛みがともなう状況になるかと思います。
とにかく、採血検査がゆううつな時間になりました。
もう熱がではじめてから3週間ほどたちましたが、熱は下がる気配がなく40℃近くをだしつづけていました。
あいかわらず、意識も感覚も朦朧としていましたがそれでも朝はやってきました。
このとき私がよく思っていたのは、『今日は熱がでないといいな』とか、
『早く楽に死なせてくれたらいいのに』とかいったことでした。
きっと生きていることに価値がなくなってしまっていたのだと思います。
その日は、また朝から意識がとんでしまって記憶がなくなりました。
そうなると、こころぼそくなるもので家族や友達の顔がうかんできました。
『心配してるだろうな、
このまま死んでしまったら、もう二度と会うことも話すこともできなくなる
そうなる前に、連絡しなきゃ』とそう思っている中息苦しさがやってきていました。
ためしにこれを外すとどうなるのか?
自力では息ができないものなのか?
そう酸素チューブをしているから苦しいのか?
はずしてみたら、呼吸ができるかもしれないとわけのわからないことをならべて考えていて、思いきってはずすということをしていました。
結果は、やっぱりうまく呼吸ができなくなり息苦しいということがわかりました。
なんで息苦しいのか?
いったいどうなってしまったのか?
そうしている間にも、検査はなされていたがいっこうに結果が教えてもられることがありませんでした。
それなのに、血液検査や骨髄穿刺、リンパ腺の状態といろんな内容の説明を主治医がしてきてわけがわからなくなっていました。
12月15日、朝いつものように検温したところ、37℃の数字になっていました。
それまで続いていた熱がようやく下がったようでした。
この大変な状態から解放されたと思っていましたが、事態はそう簡単ではありませんでした。
酸素チューブはまだ装着されたまま、
解熱剤、抗菌剤、点滴用液、
すぐにははずされることなく、まだまだ点滴は続けられました。
これから、じょじょにはずされていくのだとただ利尿剤は21日まで投与され続けその当日、
朝体重をはかって、もとの体重にもどっていることが確認されてからはずされました。
この日から状態も安定し、一人でおきがり動けるようになりました。
もちろんトイレも一人でいけました。
ただ、かゆみはまだ全身にあってキリンのようなシミ状のものが体に点々とみられました。
そのため、かゆみ止めの注射を22日までは継続して行われました。
それでも原因はわからずのようでしたが、私は息苦しくなくなったことに安堵していました。
はぁ~あ
21日のその日は、あんなに大変だったことがすっかりなかったかのようにすっきりとした朝でした。
体中が汗やらなにやらで、べとべとしているような気配でした。
そう考えてみれば、再入院してから3週間というもの一度もお風呂にはいれてないのでそうなってもしかたないことでした。
こういったことはときに当たり前のようになっていきますが、とにかく体調が悪いときには入れないことが多くあります。
はいれるときにはいっておかないと、つぎに体調が悪ければいつはいれるかどうかわかりません。
ここで病院の入浴についてお話しますが、通常は一人で入るのが大変な場合をのぞいて朝入浴リストに自分の名前を入りたい希望の時間のところに記載(きさい)して、
予約をとるのですが、体調が悪い人や介助が必要な場合はその日の担当ナースに伝えて入浴するというスタイルをどこの病院でもとっているようです。
このときの私の場合は、長いこと熱がでていた状況もあって入浴してもよいかどうか?といったところもふくめ確認をおこなったといった状況でした。
朝の、今日の担当ナースに『頭をあらいたい』とおねがいして午後に久々にシャワー浴ができることになりました。
その病院の浴室は1か所しかなく、湯船もなくシャワーのみなので冬はちょっと寒く感じますが、それでもしばらく入っていなかった私にとっては、
全身お湯をあびた瞬間、生き返った気がしました。
ただ、私の状態は最悪でした。
カミはからみついてにおいもあって、抗がん剤や薬の影響なのか?以前よりもカミの毛のツヤもやわらかさもなくなってきたようでした。
さわると、ゴワゴワとしていたのでそう感じたのかもしれません。
カミを洗いおわると今度はせっけんで腕をあらいはじめたのですが、かなりのアカがでてきました。
3週間ほっとくとこんな状態になるんだなと、各所を洗いながらかゆみのあった場所もみてみることにじょじょにではありましたが、
よくなっているように感じました。
ただ、キリンのマダラ模様(もよう)は変わらず存在していました。
このままなのかな?
キレイにはならないのかな?
ならなかったら、だいぶショックだな、なんだか年寄りになった肌そのものだな、
これから肌みせはできないな、
そんな風に思っているうちに入浴が終了しました。
おわってからは、買っておいたオレンジジュースを楽しみにいっきにのみほして一息つきました。
この入浴は、このあとどんなときにも私にとっては『生きているその瞬間』を味あわせてくれ何よりも、
いま私がおかれている悪い環境すべてを洗い流してくれるようなそんな気がする時間をくれています。
こみあげてきた怒り
それにしても腹が立って仕方がなかったのです。
この3週間のできごととはいったいなんだったのだろう?
考えれば考えるほど、腹が立って仕方なくなってしまいました。
熱がでたあとに、さまざま検査をしたのに私には主治医はウィルス感染と話していましたが、大量の点滴を行って検査がくりかえされたはずでした。
それなのにその結果はといえば、むくみによる体重増加、胸水がたまり息苦しくなって命をおびやかされた状態になり、
利尿剤を投与されて、くるったようにトイレに座り続けどんどんヒヘイしていきました。
それでもなお、恐ろしいことにウィルス感染ということにしばられて3週間以上たっても、原因がわからないままウィルス感染といい続けていました。
治療のうえでおこることは、突発的なこともあるかもしれません。
ただ、患者が不安にならないように配慮するとか、
声をかけるとか、
なんとでもできるのではないか?とそう思いました。
考える方向性はいろいろあったはずです。
例えば、抗がん剤の副作用や身体のつかれの影響や免疫力低下(めんえきていか)がまねいた自己免疫への攻撃(こうげき)とか、
そういったことは考えられなかったのか?
そんなことも主治医は口にしているのにもかかわらず、結局ウィルス感染といい続けていることにあきれてしまいました。
もっと治療に柔軟性(じゅうなんせい) をもっていけないのか?と、そう感じずにはいられませんでした。
もともと、この主治医に対しては以前から不信感しかありませんでしたから、この3週間は私にとってそれを決定ずけるできごとになりました。
ここ最近、研修医が現場実習にきたので何気にきいてみたところ、あれそんなこといってしまっていいのかな?と思うことを話してくれました。
研修医の話
『熱発や体重増加、むくみに振り回されて、目先だけの治療になっていたこと、
抗菌剤を多用に点滴投与したことで、身体の免疫力をコントロールするために必要な善良な菌も殺してしまい、そのおかげで自己の免疫の暴走(ぼうそう)が始まり、
熱も下がらず、湿疹、体重増加などをまねいたと言ったところが現時点で言えるとのこと。』
私が考えていたことがあたっていました。
というより、この研修医の方がちゃんとしていると思ってしまいました。
でも問題なのは、なぜ抗菌剤をそれほど投与する必要性があったのか?ということだと思いました。
まだ医者としての経験があさいから?
学校を卒業してそんなにたっていないから?
それをしどうする立場の人はどうしているのか?
これは、あとから夫に聞いた話ですが私がこれだけ点滴投与されていることに対して主治医にこういったそうです。
『検査結果には、ウイルス感染をうたがう点がないのにもかかわらずなぜ、それほどまでに抗菌剤の点滴をおこない続けるのか?』と、
指摘したことがあったとのこと、それによって点滴をへらしはじめたということを聞きました。
しかも、状態が悪くなってから一度も家族には一切病状の説明はなかったといいます。
これって一体、どういうことなのだろう‼しかも、あんだけ苦しかったのは、胸水がたまっていたとは、私にはいっさい話をしてくれませんでした。
ちなみに胸水がたまっていたことは、あとからナースから聞いてしったことです。
私はあのとき、高熱によって当時の記憶はほとんどありませんでしたし、
何かしら検査することについては、さんざんいわれていたが何をやるのか?ということに関してはくわしく話してはもらえなかったため、
何も理解ができていなかったとナースに話をしたほどでした。
そうした話をしたら、そのナースが部屋をでてしばらくしてからいきなり主治医が部屋に入室してきて、
『記憶がなかったってほんとですか?』
と聞いてきました。
このときばかりは、よっぽど口にしていってやろうか!と思うくらいムカつきました。
というのも、『あの高熱の状態で正気であったと感じたあなた(主治医)は、その感覚はあきらかにおかしいよ』としかいえない状態だったからです。
そのあといった言葉にもイラダチしかありませんでした。
それは、『しっかりしてるから大丈夫と思って説明したけど』でした。
ただもっとも考えてほしかったのは、そうなった状況を家族には説明もしていなかったという点でした。
まさかと思いましたが、説明の必要性を感じなかったといわれたら正直もう主治医をやめてほしいといっていたかもしれません。
こんなに気づかいできない医者ってなんなの?
家族は、いつも連絡してくるその患者のおとさたがなくなったなら何かあったのでは?と思っているのではないでしょうか?
毎日毎日仕事が終わってつかれた体をはこんで看病にきているのに
そして状態がどんどん悪化していっている姿をみて、
家族は言葉もかわせないほどベッドにつっぷしている患者に、不安でいっぱいだったはずです。
それなのになんの説明もなく、
部屋移動をし、
病状の説明もなされない
こんなおかしいことがあるのでしょうか?
今までいろんなことがあっても、ぐっとこらえて治療をしなければといい聞かせてきましたが、
かなりむずかしいこの病気をこの医者にまかせてもいいのだろうか?
ぎもんと不安しかありませんでした。
もちろんこのあとの私は、平静ではいられませんでした。
これはいけないなと自分でも、精神的にまいってしまうと考えて一晩がたちます。
翌朝はいつものように、きまった時間に主治医がまわってくるのがユウウツだなと思いながらその時間をまちました。
主治医がやってきたので、私はなるべくきのうのことを考えずにちょっと冷静に主治医にこう伝えました。
『家族には、病気の状態と経過(けいか)を伝えてほしい』と
なんとか感情をださずに伝えることができました。
医者と患者
この決定的ともいえるできごとがおきたことで、このあとおきることはかなり深刻(しんこく)なことになっていきます。
大変な病にたたかいをいどむべきものたちが、迷路に迷いこみ互いに行きたい方向にむかってすすもうとしている、
本来なら一緒にめざしてすすむべき道であるのに、お互いが理解できずに行先(いきさき)を見失ってしまう、
これが、医者と患者の間でおきたことだとすれば病気をなおすという本来の目的を達成できないといった状況になるのではないでしょうか?
さてみなさんがこんな場面にあったとき、どんな対応をしますか?
私のように、こんなことありえないでしょ?という疑問をもって主治医に意見しますか?
それとも、治療してくれるのだから自分ががまんすればいいんだと、そう考えますか?
今回は私もよく、テレビでも病気になった人がドクターショッピングをしても原因をしることや治療を、
つまりはなおしてくれる医師をさがしてといった特集がよくくまれていることが、
自分にもおきるのだなと思う瞬間でした。
やはり、病気の原因も病名もわからないといったところは患者の気力もこれからの未来も失ってしまうものだとそう感じます。
にもまして、私の場合は主治医がこのようなたよりない状態でした。
病気の治療をしていくのは医者だけではなく、患者も一緒になって考え意見し
なおしていく必要性があるのだと私は思います。
いつもでなくても、患者がどう思って、どうしてほしいのか?
いまどうゆう状態であるのか?
そういったことを聞くということが、医師だというならできるようにしてほしいものです。
それであれば、たとえ原因や病名がわからなかったとしても病気とむかいあうことができるのではないでしょうか?
さてこれから私は、どうなっていくのでしょうか?
この時期の私は途方にくれて、時間をすごしていきます。
そして明日は何ごともおきませんようにとねがって毎朝をむかえます。
病をかかえているみなさんが、少しでもよい方向にすすまれていくことをねがいます。
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