本編にはいる前に
前回のところで、お話しするのをわすれていたことがありました。
『68キロ』までふくらんだ私の体のことです。
みなさんの中でも気になっておられた方がいたのでは?と思いましたので
おつたえします。
利尿剤のおかげで、すべてしぼられたようで『55キロ』までに
無事にもどってくれました。
さて今回のお話ですが、病棟でも年末一時退院の話がチラホラ出はじめました。
例外なく重篤(じゅうとく)でないかぎりは、なるべくは退院になるのはいうまでもありません。
そうなると今回は前回とはちがって、リハビリする時間がホントにありません。
また、自分なりにリハビリするしかないのか?と・・・。
12月21日からは、室内やトイレなど自力で歩きはじめたものの、週末までにはなんとかメドをたてなければと、
そう思っていました。
このままだと、帰宅して『さてどうしよう』の状態になるので、
とにかく、22日からは廊下を10数メートル往復して歩くことを日に何度もするようにしました。
あとは、こんなことかな?と
昔、介護現場でご利用者にしてもらっていたことを
自身で思い出してやってみたりと、
うるおぼえながらこれはこれはと、
ちょっとうまくいきそう、なんて思いながら
やっていきました。
かなりキツイ、でもやらなければなりません。
私の性格上きちんとやりとげないと落ち着かない、といったものがあります。
なかなか面倒(めんどう)くさい性格になっております。
そして明日から間にあわないと、こまってしまうので
じょじょにふやしていかなければならないと思いました。
さて、うまくいくのでしょうか?
いまさら?
25日、時間は午後13時でした。
今日のことは事前に説明があって、
家族も同席するようにいわれていたため、夫にきてもらっての参加になりました。
私はてっきりこの病室でやるのだと思っていましたが、
時間より少し前に婦長さんが私の部屋に訪室(ほうしつ)し、別室になるのでと
いわれ案内されたのでついていきました。
ただ、今の私はイスに長時間すわっていることがむずかしいと思われたため、
その状況をつたえての参加となりました。
全員そろうと話がはじまり、今日のこの面談(めんだん)に参加するものの自己紹介とあいさつがなされ、
そのあと行うにあたっての目的の説明がされていきました。
ちなみに参加者は、主治医、婦長、夫、私の4人です。
主治医の説明がはじまりました。
まさかと思ってはいましたが、やっぱりそうでした。
主治医からでたのは、『ウイルス感染説』
いやはや、かんべんしてほしいよ?と思いました。
よりによってここまで、病状があって検査もしつくしているのに
まだウイルス感染といいはって主張している
それに、ウイルスの発見には今この段階になっても見つけられていない、
私はこの面談で、主治医が何をしたいのか?
いいたいのか?
まったくといっていいほどわかりませんでした。
でもまだ、説明は続いていきます。
治療の結果、熱はさがったがまた出る可能性もあること、
このことが、次の治療のさまたげになる可能性もあること、
自己免疫の暴走(ぼうそう)についてなどの話がありました。
ここで、主治医は自己免疫の暴走といっていますが、
そのあと、『ただウイルスはまだ、探している』
『今はタイムリーに見つけてはいないだけだと思われる』
そういっていました。
ん?次の治療って何?説明されてないけど・・・またとうとつにでたなぁと思いながら、
私としては、ウイルス感染のことについて話をしている主治医にあきれてしまっていたが
まだ免疫の暴走(ぼうそう)の話がでただけ、
それでもましか?と思ってしましました。
その後、夫から
『今回、そのような状態で一時退院しても大丈夫なのか?』
『日中は、つきっきりというわけにはいかないので不安がある』
『このような状況になるのであれば、前回退院しなかった方がよかったのでは?』
といった話がでました。
さあ何ていうのでしょう、主治医からです。
『どの白血病患者も同じ経過をたどって入退院をしているが、
今回のようなことは異例(いれい)である』
そう話がありました。
どの患者も同じ経過をたどる?ってそれはちがうのでは?
といいたくなりましたが、患者はみな同じではないとった認識(にんしき)がない、
同じ病でも、確実に状態は変わってくるはずなのに
その考え方に私は納得(なっとく)がいきませんでいた。
私はこの一連のことでかなり、頭にきていたこともあって
でもそのなかでも一番いいたかった、先日いった同じことを
もう一度この場でつたえました。
『なぜこの期間家族に一切説明がなかったのか?!説明してもらいたかった』
とそういいました。
すると、かえってきたのはあのときと同じ
『○○さんがしっかりされていたから、家族には説明はしなくて大丈夫と思った』でした。
この返答に私は、がまんしていたものがおさえきれなくなり、
『家族は仕事が終わって疲れても、見舞いにくる、そのたび状態が悪くなって行くのをどう思うか…おかげで、
実家も私の心配をしていても状態わからずで、
夫に対して連絡もよこさない❕(ーー゛)?と不信感を抱くようになってしまった』
と、まだいいたいことはありましたがふと主治医をみたとき
この人にはいっても無駄だと、
そう感じてしまいました。
とその途端、ガンバって座っていたのですが
限界になってしまって話を切り上げてもらうことになりました。
とりあえず、翌週の29、30日を一時退院のメドとして話をおえました。
なんとも、それほど意味のあるものとはいがたい
話し合いになったものだと、感じていましたが
自室にもどりがてら、私が発熱中こまめに気にかけ、
声をかけてくれたナースに対して頭がさがる思いでいたことを
つたえながらも、主治医に対する怒りはやっぱりおさまりませんでした。
ちかづく退院
これしかない
面談がおわった翌日、いつもの朝がきました。
きのうの今日で主治医とは顔をあわせるのも負担に思う状況でしたが、
そうもいってられません。
いつものように、いつものように・・・
主治医も何食わぬ顔でやってきて、退院日をいつにするのか?
ということについて確認をしてきました。
ひとりでは、前回のように交通機関をつかってはまず無理な状態になっていたので
『夫の休みに合わせて退院したい』とつたえた上で、相談してから退院日を決めることになりました。
退院になるのは、よろこばしいこと?なのかもしれませんが
この数週間、熱発にくわえて
まともに食事をとるといったこともできないことや
利尿剤によるトイレへのいきまくり
夜間はそのせいで眠れず睡眠不足
といった状態がくりかえされていたせいで、すっかり私の体の筋力は落ちてしまい、
短い距離しか歩くことができなくなっていました。
退院日をきめるのはいいけど、私の体がどうなっているのか?
客観的にみても、自宅にかえって生活を数日でもするというのは
よっぽど動けるようになっていないとむずかいいのでは?と思いました。
帰宅して第一に玄関の段差があります。
そして、少しすすんであがりカマチがあって
台所のあるリビングになります。
ただ、寝おきや入浴は2階になっているので大変と思われるのは階段でした。
階段は高さが病院の階段とはちがって、高めになっています。
この自宅での生活をするということを想像したときに、以前の一時退院のときの状態とは
かなりちがってしまっている自身の状態があるので、
正直かえってもやっていけるのか?といった不安がありました。
かといってリハビリをとりいれてくれるような、配慮もない
となると、自分でガンバってやるしかありません。
そうなると、たぶん今の私の状態にあわせたもので
ある程度の筋力強化もふくめたものとして
できることといえば思いつくのは、階段昇降しかありませんでした。
もちろん、いままでおこなってきたものも続けるつもりで
それも追加していきます。
階段昇降なら、有酸素運動にも筋力をあげるにも、
つごうがいいことと、
一番そのリハビリにとってのメリットが、たとえ何かあっても
ふだん職員の多くがエレベーターをつかわないで階段を利用しているというところで
ちょうど対応してくれるといった考えと
1階から最上階までのふきぬけになっているので、
換気はよくなっている場所でもあるため
ちょうどいいと、私のリハビリ場所にはうってつけでした。
ただ、今回は前回のような時間はのこされていなかったので
かなりガンバらないといけません。
はじめは、かるめにといっても私の場合のかるめは
けっこうはげしめなのかも?しれません。
12月24日から開始しました。
まだ身体のバランスがとれず不安定だったので、手すりにつかまって一往復からしてみました。
なんだかヒザが・・・『笑ってるぅ』と口に出してしまったくらい
おどろくほどの状況でした。
とにかく一往復するときめて、4階からまずは5階まで
やはり、筋力はおちまくっているようで
おどりばをかいしたところで、
足にちからがはいらず、ふんばりがきかないといったこともおきていました。
がなんとか、くだりも無事におえてひと息(´Д`)ハァ…
『大丈夫かな?私無事にやれるのかな?』
と不安を感じてしまいました。
午後はもう少しふやそう!そうやってコツコツいくしか
いまはどうすることもできないのだと、そう思いました。
熱の原因がわかる?
やはり、病院としては年末ともなると休日勤務のシフトをくむだろうから患者を退院させないと
大変なのだろうと想像ができます。
担当ナースと相談をして、仕事が終わりしだい夫にむかえにきてもらうことで
話がまとまったので、夕方までいさせてほしいとお願いをしました。
そうして、やっと
12月29日の退院がきまりました。
私の中では、とにかく自宅に帰れるといったことで頭の中がいっぱいだったので
このさきのことについては、考えるといったことをしませんでした。
というより、したくありませんでしたといった方が正しいかもしれません。
それこそ『帰れるんだ❤やったー!?食事は帰宅中にどこかですればいいや♪』
と思ってわれながらいいアイディアだなと、安易に思っていました。
ただ、その反面では動けないことに対しての不安もありました。
12月28日、退院前日になり先週おこなった血液検査の結果とやらがでて
退院取り消しか?と思った話が出ました。
どうやら検査結果が、サイトメガロウイルスが活性化したらしき数値が見られたからと、
そのウイルスに対処するため薬が処方されると、それだけの説明が主治医からありました。
何ですか❗それは?
と聞きたかったのですが、まあ調べればいいかと・・・
もとめない、そうもとめないと思いなおしました。
さてサイトメガロウイルスって?とみなさんもなられたかもしれませんので、
説明させていただきます。
サイトメガロウイルスとは、
このウイルスはどこにでもいるウイルスでありますが、感染経路としては水平感染(すいへいかんせん)、母児感染の2つに大きく分けられます。
みなさんがきいたことがあるとするならば、ヘルペスといった名前になるでしょうか、とくに口もとにそういった菌が発生することで、水ぶくれがポチっとできるあれの仲間の一種ということです。
人間の体には誰にでも存在しているものといえのですが、唾液や尿に存在しています。
健康体の人ならばなんともなく問題がないのですが、
病気になっていたり、体調がよくない、
免疫を抑制する薬をのんでいて免疫力がさがった状態では、
そのウイルスがかっぱつになってしまい、悪さをするといったことがおきます。
症状はカゼににたものといわれていますが、私が高熱をだしたりむくんだりしたのは?
果たしてこのことが原因だったのでしょうか?
ほかに原因と思われることも思いだしてみましたが、
少し前に自宅で水もれを起こして水浸しに、キッチン回りがなっていたことで
カビの臭いがあったのでそのカビ発生があったからなのかな?とか、
その台所で家事の為、立ち続けていたからなのか?とか、
なんとなくそうではない、
どれもしっくりこないそんなきがしますが、
なにしろ、主治医からの説明がじゅうぶんでないので質問のしようがなく
私もこの主治医とあまり話したくないといった心境もてつだって
いわなくてもいいか・・・
となってしまい話をすぐにきりあげてしまったので、どう解釈(かいしゃく)したらいいのか?
ただしったからといってどうか?ということもありますが、
なんとなく、自分の症状がでた原因をしっておかないと
といった気持ちになったので、
病の原因がわからないと落ちつかないといった状況になりました。
そのときは結局は解決しないで、モヤモヤしたままでした。
この私が
『今日退院かぁ~』
そう思いながら、階段リハビリも階数もかなりふえてきて
今日は最上階の9階までのぼって、1階のコンビニまでおりてみよう?と
目標をきめて、やってみました。
階段をおりたあとは、ヒザがガクガクいってます。
以前、マラソンの選手がテレビでいっていたことばが頭をよぎりました。
それは、あの箱根駅伝(はこねえきでん)での選手の話として、
のぼりの選手とくだりの選手どちらが、より足への負担がおおきいか?
といった内容の話でした。
私は、のぼりかな?と・・・理由は、ヒザにチカラが加わって
全体重をかけてもちあげなければならないから、ぜったいのぼりだと思ったのですが、
答えは、くだりでした。
くだりの道は重力の影響で、おりていると自然にスピードが出るのだそう
そのため、その速度をコントロールしながら、
なおかつスピードによる衝撃(しょうげき)をおさえようと
スムーズに重心移動(じゅうしんいどう)をする必要があるということでした。
うまいことできないと、足腰のあちこちに痛みがでたり
ころぶといったことになるわけですね。
そうして、すべてがおわった時点で、私のヒザはガクガクとしていたので
ヒザが笑ってるなと思ってなんとなくおもしろかったのですが、
どうみても、ヒザがガクガクしているということは、
スピードをコントロールできていない、
衝撃もやわらげていないといったことがいえます。
いまの状態ではたして、リハビリがまにあうのかどうか?
このときは、リハビリができるようにしてくれていないので
客観的(きゃっかんてき)に私の状態を把握して、自宅に帰っても大丈夫?と太鼓判をおしてくれる人もおらず、
動きを評価してもらえることもないので
これでできるようになったか?とか、
リハビリスピードを早めるといったことも自分でみていかなくてはならず、
はっきりいって状態がよくなったかどうかが、わかりませんでした。
部屋にもどると、すぐにあの主治医がきて
前置きなく
『一時退院時に熱発やかゆみがでて、
かゆみがひどくなるようであれば、救急外来を受診するように』
と話をしていきました。
救急外来は、お金がかかるのよね~と私は内心思いながら
ちゃくちゃくと帰るための準備をはじめました。
帰宅してもあとは眠るだけにしておこうと思い、入浴もすませているうちに
病棟が夕食の時間になりました。
まだ、荷物まとまってないものがあったと、そうこうしているうちに
むかえがきてしまいました。
私は、わ~い?この食事からしばらく解放されるんだと
そう思ったら、解放感(かいほうかん)でいっぱいで
心はもう病院にはいませんでした。
すでに頭の中は、『何を食べようか?』
『どこで食べようか?』でいっぱいになっていました。
ちなみに今の私の食事は、なんでも食べられます。
といいたいのですが、癌(ガン)治療を開始するともあって
なまもの類、菌類は食べることができませんでした。
いま『なに?』ってなりませんでしたか?
なまもの類とは、お刺身、加熱されていない野菜などをさします。
また果物については新鮮で傷のない物で、基本的には皮をむける物になります。
菌類(きんるい)は、納豆、ヨーグルト、キムチ、ぬかづけ、チーズ
などのいわゆる発酵(はっこう)食品といわれるものになります。
この食べ物については、このあとかなりきついなと感じることが
おおくなっていきます。
というのも、私は発酵食品なるものをこのんで食べる傾向があるので
この条件はできれはのみたくないと思っていました。
でも、きくところによると、この発酵食品一生食べられないといった人もある食品ではおきるようです。
この中で、どれ?といわれておわかりになりますか?
答えは、納豆でした。
骨髄移植後(こつずいいしょくご)はまた内容が少しかわりますが、
これらの条件をふまえつつどこで食べるか?です。
何にせよ、注意は必要になってきますが
帰宅途中の車内で、どこで食べるかをきめて
けっきょくは何でもたくさん食べたいと、食べ放題のお店にいくことにしました。
昔の私は、食べるとなると、
しかも食べ放題ともなれば、いつもなら元をとろうと思って気合をいれて食べまくるのに
たくさん食べるぞ❗
と気持ちだけは前向きでしたが、しばらくの病院食なれしてしまったのと
今回は長いこと続いたダメージもあって、胃が小さくなったのか?
あまり多くはたべられませんでした。
ダイエットをしていた、あの頃ならちょうどよかったでしょうか?
でも、そんなに食べられなくなったことに私はあらためて
病気をするとこうなるんだなと感じたのでした。
痛みの方がいいかも
そのはじまり
やっぱり、自宅はいいな?
しばらくは制限のある食事をとっていた私にとって、
満腹の状態になったことと
病院での規則的(きそくてき)で閉鎖的(へいさてき)な生活から解放されたといった
気持ちもあったと思いますが、
車が自宅の駐車スペースに到着した瞬間にそう感じました。
でも、ほっとしたのもつかの間でした。
部屋にはいって、着がえをした際に両手をみたときにそれをみつけたのです。
それは、ちょっとした発赤でした。
なんとなくやな予感しかしませんでした。
もしかしてかゆくなるのかな?Σ( ̄□ ̄|||)
その感はやがて、アタリをみせることとなります。
年明け、そのおそろしく感じた赤みは
これほどのものになるとはこれっぽちも思っていませんでしたが、
手にあったものがうでに、太ももに
そして太ももからその周辺へ広がりをみせ、
3日目には手の先の指、手のひらと
強烈なかゆみとなって存在をしめしはじめました。
4日目、5日目には、ひざ下から足先にかけて全身にひろがっていきました。
そのかゆみも、夜間の時間帯がひどく私はねむることができなくなりました。
それと、入浴やねむるときに布団にはいってしばらくして
身体があたたまってくるとちらほらと
やがては本領発揮となってきます。
なので、とりあえずはカラダが暑くならないようにしなければなりません。
洋服はなるべくはうす着に
そして、入浴時はかなりぬるめのお湯に入ります。
ただときどき、うまく調整がいかなくて・・・といったことにもなります。
布団にはいったときは、だせるものは布団からだします。
手だったり足だったり。
浴後と寝る前は、これまたおなじみの保湿クリーム
それもステロイド配合のすごいやつを忘れずにぬります。
かゆみは昼も夜も関係なくおきますが、とくにひどくなっていったのは
指先、手の甲、
足首、足の甲、足裏
と体の中心ではなくて、まったんのほうに集中してハンパないものになっていて
夜間は、そのために何度もおきてクリームをぬるといったことを
くりかえしやらなければなりませんでした。
ただステロイドが配合されたものは、何度もぬることができなかったため
ねむる前のそのときだけというようにしていました。
そして、かゆみのために内服薬(ポララミン)ものみました。
内服薬は、ねむる前に1錠にしていたのを
ひどくなってきた3日目には、ほぼ毎食後とねる前と
午前2時ごろと
1日に5回にしてかゆみをしのいでと、なっていきました。
このときのかゆみは文字で声にしてみると、
『んあ”あ”~かゆい❗❗』
ってかんじでしょうか?とにかく、ひどいとしかいいようがないものでした。
これからひどくならなきゃいいんだけど?
でもこれだと、病院にもどらされる?
それはイヤだ❕なんて思っていたりしていました。
たぶんこの状態では、確実に病院にひきもどされるとわかっていたので
連絡はしたくありませんでした。
でもなぜこんなかゆみがでてきたいたのでしょうか?
わからないで不安な日々が続いていきますが、家族にはいえませんでした。
このことが、のちの私の治療にどうかかわってくるのかも
わからないまま、自宅での生活は続いていきます。
さらに
そして、それと同時に出現してきたのが出血でした。
それは、穴(あな)という穴から出てきていて
鼻(はな)、耳、肛門(こうもん)といったところがおもでした。
私の体にいったい何がおきているのか?
穴から出血ってエボラ?そんなことないよな?とか、
いろんなことを考えてしまいました。
また、かゆみがでて5日目には昼食の時間に口の中に違和感(いわかん)を
おぼえたのでみてみたところ、
なんとそれは、カラダの全身におよんでいた発疹と同様のものが
みてとれ、これにはびっくり(@ ̄□ ̄@;)!!でした。
そして、舌先?をみてみるとただれていて
そういえば、さきほど食べていた食べ物の味がしないのでは?
ときづいて、
なおかつ、口角の両側の皮がむけ、
くちびるもきれてしまって痛みがありと、
そんなこんなでは、当然食事はおいしいと感じることもなかったのですが、
ここは、食欲をおとすべきではないと思ったので
ガンバって食べすすめることにしました。
ちょうど1週間たったころには、夜間に指先をボリボリとはげしくかいている
といった状況で目がさめることとなりました。
あまりにかいたのか?その翌日は、手が赤くはれあがってしまい
動かすのが大変になってしまいました。
こうなると、できなくなるといったことが出てきました。
それは、お水などのペットボトルのキャップをあけたり、
キャビネットの引き出しをあけたり、
みかんの皮をむいたりなどといった指先や手をつかったことが、
ゆっくり時間をかけないとできなくなりました。
その後も、どんどんできなくなっていきました。
やがて、私の爪にもはえぎわに発疹がではじめ、
翌日には、指先にちからがはいらないといったことがおきはじめました。
薬もうまくカラからだせない、なんとか苦労して
ハサミの先を利用しておしだしてみたりして、とりだすといったこともしました。
もうそのころになると、何をするにも時間がかかるので
自分に対してイライラし続けてました。
そういった不自由な手になっても、自分でできることは
家には私しかいなかったので、なんとか自分でしなけれはと思ってました。
ただ保湿クリームをぬるときは、誰かの手をかりたいと思ったことは
なんどもあって、
とくに背中は、かなりむずかしかった。
はれた手では、柔軟性(じゅうなんせい)がないため
うまいこということをきいてくれないのです。
けっきょく、保湿クリームをぬると1時間以上はかかりました。
でも、私のやることはまだまだありました。
やはり主婦なので、家事もやらなければなりません。
この状態なら、やらなくてもいいといってはもらっていましたが、
なんとなく悪い気がして・・・でもそうこういってられないほど
手はままならなくなってきました。
その原因のひとつと思われたのが、ステロイド配合の保湿クリームを使用していたこと、
このクリーム前にもおつたえしていますが、
あまりぬりすぎるとダメ❌とおつたえしていたかと思います。
そのダメといわれていること、
かなりのかゆみなのでぬらずにはいられなかったのですが
もう、その影響がいわれたようにでていきていました。
手の爪(つめ)がはがれてきていてなにげにそこから、出血しはじめて
何をやるにもしみるようになってました。
手をあらったり、物をもったり
洗い物や入浴、洗濯
そういったものには痛みをともないました。
なんども絆創膏(ばんそうこう)をとりかえたり、
テーピングでグルグルまきにしてみたり
といったこともしてみましたが、なんの予防にもならずに
たくさんのゴミをだしてしまっただけでした。
ついにここでおわってしまう?
ここまでなってしまっても、私は病院に帰るということの
選択をしませんでした。
長期にわたる、私と主治医の関係性からいってみればあたり前のことが
おきるべくしておきたといえるのかもしれません。
その関係性は、もう修復できないところまできてしまいました。
と、私はそう感じていました。
主治医がどう感じていたのか?はわかりません。
とにかく、話をしたくない!と思ってしまっていたので、
ほぼ不信感しかありませんでしたし、今後のことなど
この主治医では無理だろうと思っていました。
どちらかといえば、私は経験のない医師に対しては寛容(かんよう)でいたいと思っていますが、
主治医はもう7~8年たっているとの話だったので
そういった考えにはなれませんでした。
この関係このまま続くのだろうか?
かゆみも、
白血病の治療も、
私はただ、医師のいうことを『ハイハイ』ときいて
もめごとをおこさずに、おとなしくしていればよかったのでしょうか?
私は、意志のない患者ではありません。
ちゃんとコミュニケーションをとってくれなければ
何もはじまらないし、選択もできないといったことがおおく発生してきます。
卵子保存のときといい、今回といい、
そういったことの配慮(はいりょ)ができるものと思っていたのですが、
介護の仕事をしていたときに、よく患者や利用者の方がおっしゃっていた
ことが頭をよぎりました。
『私はみてもらっている身のうえだから、なにもいえない』と、
私も少なからずそう感じていたので、それがいけなかった?のでしょうか。
それともあまりに、この主治医に期待しすぎたからダメたっだのかもしれません。
ただ、私は自分の命をあずけている
だから、治療についてもかかわる必要もあって
必要ならば方向性もしめしていくといったことをしたいと思っていましたが、
たぶん、この状態ではそれはできないのだと思われました。
いまさらながら、私に対してされている治療はいったいなんなのでしょうか?
そのこともしらされていません。
これからさきの治療についても全くといっていいほど、しらされてはいません。
本来ならば、白血病の治療はこういった形でおこなっていきますが・・・
と説明があって
はじめて治療がすすめられていくといったことになるのではないでしょうか?
そしておきたことに対しても、説明
その対処法(たいしょほう)の説明
検査をして治療
治療して評価(ひょうか)
評価を説明、つぎの段階の説明
そうして、治療がスムーズになりたっていくものと
すべてはこまかく説明をしていくことで信頼も必要性も
成り立つとそう考えます。
その点は、何となく介護の仕事に似ています。
けっきょくこのころの私は、
にっちもさっちもいかない、まさにがけっぷち
はたしてこんな私に、来年はどんな未来がひろがっているでしょうか?
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