ホントは知らないといけない、その薬をのむことのホントの副作用

水晶 田村神社 ブログ

第16章 とりあえず移植につなげるための治療

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引用元

薬のはじまり

それらの薬がはじまったのは、 病気の正体がわかった2015年10月19日 からですが、そこからがある意味

これから長きにわたって続く、薬とのたたかいのはじまりでもありました。

当時、出された薬はトラムセット(痛みどめ)

ソランタール(痛みどめ)

フェブリク (血液中の尿酸の量を低下させる)

ラベプラゾール(胃薬)

マグミット(べんぴ薬)

センノシド(べんぴ薬)で・・・また痛みがでた場合にはカロナール(痛みどめ)が追加されました。

痛み止めは、2種類も内服してましたが、どちらかといえば、カロナールの方がききめがあると感じました。

子どものころから、風邪をひいても薬はあまりのんでこなかったこともあって、たくさんのむことに抵抗(ていこう)がありました。

そのため、カロナールをのんだのはがまんできなかった、一度だけでした。

でもそんな考えとはうらはらに、精神不安の薬も用意があると主治医から言われましたが、「これ以上はのみたくない」と思い精神安定剤はのみませんでした。

しかし、その後はどんどん薬が増えていくことになります。

プレドニゾロンの登場

10月21日からは、これまで話していたプレドニゾロン(めんえきよくせいざい)がでました。

初めは数粒から、最終的には7粒ほどになるとのことでした

副作用については、主治医から「不眠が顕著(けんちょ)になる」との話がありました。

ただこの薬ネットで調べると、とんでもない「やっかいな薬」であることがわかります。

その後、かなり悩まされる薬のひとつになります

このお話はまた、おってさせていただきます。

ナースも、主治医も「ねむれた?お通じはあった?」と毎回聞いてきます。

私の好きなことといえば、たべることですがそれに負けずおとらず、どこでも寝れるもあります。

高校生のころですが昼食後に、体育館の倉庫でとび箱ととび箱の間にマットがあって、そこに上手に昼寝をしていたことが、よくありました。

「プレドニゾロンなんのその!」ナースもおどろくほど毎晩よく寝てました。

ほとんどの人が、眠れないとのことの話がありましたが

私はその後、薬がふえても寝れてました。

もはや、特技です。

プレドニゾロンの話の中に、興味(きょうみ)深いものがあって、その話を聞いたとき納得(なっとく)したことをおぼえています。

人が亡くなる直前に、そのプレドニゾロンをつかってこの世にとどまってもらうようにこの薬を使用するといった内容でした。

それほど強いということです。

薬によって食べてはいけない食べ物

今までの食習慣のなかで、ヨーグルトグレープフルーツなどといった食べ物がけっこう好きでよく食べてきました。

ただ、このたびの薬によって、それらが食べられなくなりました。

とにかく、免疫がおちることから『』が含まれているもの

乳酸菌をふくんだヨーグルト納豆チーズといった発酵(はっこう)食品については、今後食べられなくなると話がありました。

あと、生ものも食べられないといわれました。

刺身(さしみ)サラダ(野菜)などなど

病気がよくなっていけば、薬も減ってまた食べることができるとのことですが、納豆などは病気がよくなっても食べられなくなる人もいるとか・・・

どちらにしても、今は食べてはいけないということでした。

そして、その中でもショックだったのがグレープフルーツでした。

グレープフルーツは免疫抑制剤(めんえきよくせいざい)によって、薬の効果をよりつよくしてしまうといったことで、食べてはダメということでした。

「好きな物が食べられない」これも仕方ないのかな・・・

それに、私は便秘にならないように毎晩、ヨーグルトを食べてきていたので、正直いってまいりました。

それにかわるものといっても、病院の食事は便秘にならないようにとは考えられていない気がしました。

ここは、気持ちを切りかえて、よくなれば食べられるのだからとそう考えることにしました。

毎日暗示(あんじ)をかけられる

その後も、毎朝『眠れた?』と聞かれ、そのうち「患者さんの中にも、そうやっていわれるたびに暗示にかけられる」という人もいると聞きました。

そして、それと同じく暗示をかけられたのか?私が働いていた介護現場でもよく聞く会話ですが

お通じも「出た?出ない?」と毎日聞かれるようになりました。

たしかに、たぶんそれがプレッシャーになったようで下剤をのんでいるのに、出ないようになってきました。

まず、お通じがでるにはタイミングが必要ですが、その時間には必ず出る習慣(しゅうかん)をつくりたいと考えますが、

面会もあって4日間出なかったことがありました。

そのときは、しかたなく下剤(マグミット)をその日の夜と翌日朝にのみました。

薬をのまないと、おなかがはってしまうのと、いきむと出血するからです。

またこの出血、場合によってはとまらなくなる可能性があるとのことで、

やはり定期的に薬を(一日おきに)のむことになりました。

今まで、便秘に悩まされたことがなかったので「やっぱり自然に出したい」そう思うのは自然なことなんだと感じます。

便秘が気になりだした、そのときちょうどテレビをみていたら

「チアシード」というものが便秘に効果があるとの情報をえたのでチャレンジしてみました。

ちなみに、病院の売店はRのつくコンビニだったので、通販などは店頭で受けとることができて

ゴミは毎朝、掃除の担当の方がもっていってくれるのでそれほど、不自由は感じずにすみました。

ネットショッピングでかってチャレンジしてみました。

以外にききましたが、お金のことを考えると長続きはしませんでした。

出ないことを気にせず、出なかったら出なくても明日はでるかもしれないと、

自然にまかせることにしました。

第17章 骨髄(こつずい)検査どうだった?結果報告

引用元

2015年10月23日、医師から検査の結果がでたことで、これからについての話がありました。

まずは、病名は急性リンパ性白血病のフィラデルフィア型陽性だということ

そして、その病気の性格(せいかく)についての話

再発しやすい

生きるために今のこの状況では、輸血を続けるしか方法がないこと

やはり移植しかないとのことでした。

急性リンパ性白血病を ネットで検索すると、くわしく書いてくれてるものを見つけるのに苦労しました。

特に知りたかったのは、これからどうなっていくのか?ということでしたが

それにそう内容のものが中々見つけられませんでした。

仕方なく、主治医にそのあたりの話を聞きましたが、くわしく説明はしてもらえませんでした。

あとから思うに、30代の若い主治医にはこの病気治療の経験がそれほどないことがあったのでは?と思いました。

ただ、そこが肝心(かんじん)なところで、一番大事なところなのに教えてもらえないのは不安でした。

やはり再度、ネットで情報収集してみよかな?とさがしてみますが、医学的な内容薬の副作用

たくさん情報があるけれど、病気の進行状態を知ることはできませんでした。

とりあえず、経験が多いベテランのナースに聞いてみようと、確認(かくにん)しましたが、「患者さんそれぞれ」と言われてしまったので、

結局、情報はえられませんでした。

そのため、全くの不安でしかありませんでした。

にもまして、ネットの情報は亡くなった方が多いことが書かれていて気持ちの行き場がなくなっていました。

ただ、ここでもまた、「どちらにせよ受け入れていくしかない」と気持ちを切りかえるしかありませんでした。

私も女子だった

ここまで、治療がすすんでも気持ちが全然ついていきませんでした。

「治療なんてしなくてもいいのでは?」

「移植しなくてもよいのでは?」

「輸血していたら、自然に治るかも?」

と思ったりしますが、そんなわけないと言われているかのように治療はすすんでいきます。

「これをのんだら終わってしまう、今まで健康だった体に害がおよぶ」とそう思っていました。

その名も抗がん剤です。

まず、一番の心配はのんだらカミがぬけるのでは?ということで、まっさきに、ナースのみなさんに聞きました。

「のんだら、カミがぬけるの?」とそう聞いていました。

その答えは、人によってちがうのでわからないとのことでした。

この年齢(ねんれい)になって、自分は何をいっているんだろ?

これから恋愛をするわけでもないのに、別にぬけてもいいのでは?と思いましたが、

この考えはやはり私も女性なんだなと、あらためて気づいたきっかけなりました。

癌(がん)治療された方は、いらっしゃいますか?

この治療は、ほんとに女性泣かせなものではありませんか?

私は、そう感じます。

自分の外見が変わっていくことに、言いかえるとどんどん早く老いていくように

なっていくことを感じずにはいられません。

治療がすすむほどに、それをヒシヒシと感じることになっていく気がします。

そういった場面がこの後、どんどん出てきます。

何より、私にとってこの治療はカミがぬけるのと同じようにショックなことやあきらめのくり返しになっていきました。

ちゃくちゃくとすすむ、治療

10月28日から、抗がん剤(スプリセル)をのみはじめました。

出てくるであろう副作用に対応するために以下のことをしました。

  • むくみのチェック
  • 一日に一度の体重測定
  • 下血のチェック
  • 胸水がないかどうか?
  • 不整脈があるか?

それと並行(へいこう)して、移植のためのドナー探しもはじまりました。

さて数年前に、喧嘩(けんか)して別れしてしまってからほぼ音信不通(おんしんふつう)だった妹に病院のドナー担当者が協力を依頼(いらい)してくれました。

私は内心では、協力はむずかしいのではないかな?と思ってました。

でも、同意がえられて、送られてきた検査キットを使って口の中を綿棒(めんぼう)でふいて・・・などなど

検査したくわしい内容の連絡がきました。

私は、この病気になってからあきらめることが多く、いいことなんてないなと思っていたので、

唯一(ゆいいつ)

妹と仲直りする機会(きかい)がもてたことがなにより、うれしかったことになりました。

ただ、移植できるかどうかは結果をまつしかありません。

もし、これを読んで白血病になってしまった人を骨髄を提供して助けたいと考えてくださった方に

ドナー登録をするには、条件がたくさんあるので

くわしくは日本骨髄バンクのホームページを参考にお願いします。

妹の骨髄検査の結果まち

妹が骨髄検査の検体を提供してから、数週間がちました。

また結果がこないようで話がありません。

結果をまつというのは、ホントに長いなと感じます。

ただドナー担当者が話していたのは、家族の骨髄提供の適合する確率は25%と低いこと、

それに、提供する人が健康体であること移植時は、入院の必要性があること

加えて検査には3万円程かかること

移植が決まった場合には、その専門の病院がありそちらへ検診も含め通院をすること、

もし、妹の骨髄がダメであれば、骨髄バンクからの適合者を待つこととなります。

もしかりに、 移植が順調に行っても落ちつくまでには2年以上はかかるとのことでした。

ただ、年齢によって私は、40代ということで若年者であることのことから

回復は早い可能性が高いとのことでした。

そして、この話が一番聞きたかったことですが、仕事も移植後はできるようになるということでした。

それを聞いて、病名を宣告されたときにもう介護の仕事にはもどることができないと思っていた私にとって思わず

「 戻れる?…戻れるんだ・・・戻りたい!」とうれしくてさけびそうでした。

生きていると感じた

倒れてから、1週間以上がたちました。

身体の痛みが軽い日には、ナースに手伝ってもらい清拭(せいしき)をおこなっていましたが、

しばらく入浴していないので、カミの毛はボサボサで何だかかゆいのと

病人にしてもこれは、ひどい頭だなと思うほどの状態になっていました。

10月25日、うれしかったことがありました。

なんと、朝方寝がりがうてたことに気づいたことと、トイレへいったのですがいつもとちがいました。

あれだけ続いていた痛みが軽くなって、少し身体が軽くなった?そんな気がしました。

特に、夜中のトイレやベッド上の動き起床など楽になってきた気がしました。

その結果、室内外と移動しても良いと許可(きょか)が出ました。

入院してはじめて、病室から出て廊下をはしからはしまで歩いてみました。

病院は4階ということもあってか、奥までいった窓の外には富士山を見ることができました。

なぜか、涙がこぼれました

こうなってしまったこの無念さなのか、痛みから解放された安心感からか、富士山という壮大な自然をみたからなのか?

このときの感情は、何とも言えないものでしたがしばらくはなれられませんでした。

今でも、あのとき窓からみた富士山のことは思い出すこともあります。

久しぶりの歩行、ゆっくりだけどこれからも筋力をおとさないためにも、歩かなければとそう思いました。

歩いたことで、おなかが刺激(しげき)されたのかその後すぐトイレにいったら

お通じがでました。

10月25日、まだ入浴はできませんでしたが、うれしいことに髪を洗ってもらいました。

病室で、「長時間下を向いた状態で大丈夫か?」

「痛みはでないだろうか?」

などの不安もありましたが、生きかえったようなさっばりした気分になりました。

そのおかげか、頭のかゆみががおさまった気がしました。

ものすごい頭と思ったとおり、髪のもつれでほぐすのにかなりその日に担当したナースが苦労されてました。

そしてうれしいのは、抗がん剤のんでも、あまりカミの毛がぬけていないことでした。

第18章 生きかえったかも

柿田川

引用元

このころ、ちょっと気になっていることがありました。

なんだか、かぜでもないのにセキがでるようになっていました。

そして、頭を洗ってもらったよろこびから、つぎにまちにまった入浴の許可が10月26日にでました。

生まれてからこれまで当たり前と思ってきた入浴が、こんなに大事に感じたことは今までにありませんでした。

でも、点滴をひとまずとめてぬれないようにビニールなどで保護(ほご)して入ることになります。

そして、着がえは以前より痛みが軽減していることでそれほど苦労はなくできました。

シャワーが体にあたった瞬間、「はあ~」となんとも言えない思いで声がでました。

ほんとにスッキリとして、生きかえったそんな気持ちになりました。

ただ、お湯がかかりはじめてすぐはよかったのですが、時間がたつにつれて血流がよくなるからか胸が苦しく、息苦しくなってきました。

シャワーが終わった後は、力を吸い取られたかのような脱力状態(だつりょくじょうたい)で呼吸をととのえなければなりませんでした。

その後は、着がえを手伝ってもらい部屋へと戻りましたが

部屋についてからは、しばらく ベッドに座って休憩(きゅうけい)しなければなりませんでした。

このとき、私は介護現場で気軽に入浴をすすめてきたことを思い返しました。

よくある光景です。

イヤがっているにもかかわらずに「気持ちがいい」「きれいになるよ」「娘さんが入ってほしいと言っている」などなど

必殺(ひっさつ)文句を伝えて、入浴してもらうようにしていますが

もしかしたら、入浴がひどく苦しくなるとか、つかれると感じて入りたくないのかもしれません。

私は、自身が経験してご利用者の本位を見すごしてきたのではないか?と考えました。

介護士は歳(とし)が若いほど、ご利用者の立場にたって物事をみたり、感じたりすることができないと感じます。

自身がその歳になったときに、はじめて気づくことになるのだとそうも思います。

ただ、介護をされている方には、ぜひ知ってほしいことのひとつになるとも感じます。

第19章 もっともこわい薬の作用

薬

引用元

病気になったとき治療をする上で、よくなるように助けるために使われるものであるその薬ですが、

私が白血病になって、一番大変なこととしてあげるならば、

「薬の副作用」をあげると思います。

この薬の作用は、ときに命をおびやかす存在になります。

移植をして3年たった今でも、この薬の作用には振り回されっぱなしです。

白血病は、人によって症状も状態も違います。

そして、のむ薬も、発生する副作用も同じではありません。

なので、薬が効く人もいれば、きかない人もいます。

そして、回復のスピードもかなりちがいがあります。

中には、半年で社会復帰する人もいれば再発してしまう人も、ドナーが見つからない人もとさまざまです。

私の場合、それにもまして白血病のなかでも「やっかい」といわれているフィラデルフィア型なので、治療がむずかしいと言われています。

白血病の多くの方がそうであるように、亡くなる原因の一番は

免疫(めんえき)が低下していることによる感染症(かんせんしょう)で亡くなるということ

ドナーがみつからないことがあげられると思います。

この病気になると薬の中でも、免疫抑制剤(めんえきよくせいざい)をのむことになるのですが、

なるべく自身の免疫をおさえることで自分以外のものを受け入れられるようにして行くことにあります。

特にプレドニゾロンや、のちに出てくるタクロリムス(シュクロスポロン)といわれる、いわゆる免疫抑制剤(めんえきよくせいざい)といわれるものがそれにあたります。

これらの薬の存在によって、患者(かんじゃ)は感染症(かんせんしょう)にかなり注意しなければならなくなります。

病気がよくなるためにのむ薬、ときに苦しめる存在に変わっていってしまうこともおおいにあります。

みなさんの中でも、薬にたよらざるをえない病気をかかえておられえる方がいらっしゃるかと思います。

薬をのんでいる自身には気づかない副作用の症状がでているかもしれません。

病気の治療においては、この変化が重要(じゅうよう)になってきます。

病気を悪化させないためにも、ほんとに大事なのは

その薬の副作用を知り、

変化を見のがさず

地道にコツコツとその変化に対応していくことが必要で、

そういった変化に気づくことにあります。

そして、医師と話しながら治療をしていくことにあります。

そこで、大事になるのは、病気になった自身もわからない変化をみなさまにも

見つけだしていただくことが重要になってきます。

ぜひ、どんな変化でもいいのでこういうことがあるのだと、一緒に治療をすすめていっていただけたらと思います。

この後、続く長い治療が少しでも安心してすすむことを望(のぞ)んでいます。

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