自己紹介
はじめまして、admin(アドミン)です。
簡単に私の自己紹介をしたいと思います。
ぽっちゃりだった学生時代
私は子供のから、よく食べ、よく寝る子でした。
小学校を卒業するころには、身長は160センチ、体重は60キロ近くありました。
ぽっちゃりになったのは、小学3年生ころからだったと記憶しています。何しろ食べることが好きで、特によく食べたのがごはんでした。
近所においしい魚屋さんがあって、サバの干物を買ってきてはおやつと言ってご飯と食べるなんてことよくありました。
それと、うちの食事スタイルは、大皿で自分で量を調節しない限りは食べたいだけ、際限なく食べれるビュッフェスタイルでした。
もちろん、子供ですから制限なんてないようなものであっという間に大きくなり、ぽっちゃりさんのできあがりです。
いじめにあった小学校高学年
学年があがるにつれ、ぽっちゃりになった私を待っていたのは男子による「いじめ」でした。
私の通った小学校は、各班ひとかたまりで男子3人と女子2人で席を合わせていました。
同じ班のもう一人の女子もぽっちゃりさんでした。
ある日、男子が合わせていた座席を離したことがことの始まりでした。
彼女に対して、完全に無視をしたりといったことや「デブ」や「汚い」といった言葉を言うようになり正義感の強かった私は腹が立ち、
彼女をかばうように仲良くしました。
結局、わたしも「いじめ」のまとになったのはいうまでもありません。
毎日続く、無視や傷つく言葉を言われたり、帰り道で石を投げられたりすることで私の精神は、たもてなくなっていきました。
なので、当時の私が思っていたのは「早く大人になりたい」そうすれば、この環境からぬけられると、そう思ってました。
それと、「死にたい」と思うように気持ちもおちこんでいきました。
ただ、「休みたい」そうは思っても、負けずぎらいの性格と両親には、心配をかけたくないこともあり、
家ではなるべく明るくふるまい、わからないところで泣いてました。
でも、ちゃんと1日1日が長く感じながらも、休まずに通いました。
そしていよいよ、卒業。
どんなにこの日を待ちこがれていたか!
「解放された」と実感したことを覚えています。
ぽっちゃりだけど明るくふるまった
中学校に入学した私は、暗かった自分の小学生時代を消しさるように明るくふるいました。
その当時は、子供が多く私の行った中学は3つの小学校が集まっていたので、1クラス40人ほどおり10クラスありました。
あのいじめてくれた男子もいましたが、一度だけ同じクラスになりましたが、
こちらとしては、話す必要性もないので、一切近づきませんでしたし、なによりいろんな子がいたので助かりました。
バレーボール部に入部する
さて4月、何部に入ろうか?と悩んでいました。
当時テレビでは、「アタック№1」というバレーボールのアニメがはやっており、それにならって、私もバレー部に「入りたい」と考え申し込みました。
ところが、バレーボール部に申し込んだ女子は、かなりな人数で翌日から、セレクションという名のテストが始まりました。
テストといっても、毎日毎日、学校の周りを何周もランニングするのですが、タイムが決まっていて、
その時間に入れなければずっと練習が終わる時間まで、または練習中のボール拾いの時間まで走らされました。
ぽっちゃりな私、果たして大丈夫かな?と思ってましたが、「デブは、運動が苦手」そう思われたくないと頑張りました。
無事テストは合格。
そして、うれしいことに体重が減ったのです。
気をよくして、運動するからたくさん食べて体力つけなきゃとよりたくさん食べました。
だから、その後はいっこうに痩せませんでした。
でも、不思議と明るくしていたので、いじめられるということはありませんでした。
ただ男子は、あれいらい苦手になってしまいました。
女子高で楽しい高校生活をすごす
中学を卒業するにあたって、進路を決める際にまっさきに女子高に行こう
と決めてました。
やはり、できれば男子のいない環境にとそう思いました。
入学した後は、バレー部に入り練習にあけくれる毎日をおくりました。
多分、今考えるとこのころが一番充実していたなとそう思います。
高校3年生にもなると、今後の進路を決めなければならない時期にきてふと思ったのが、子供のころの夢、
歌手になることでした。
ただ、田舎にいてはそのチャンスはなく、夢をつかむためには東京にいくしかないとそう決断をしました。
表向きは、「バレーボールを続けるため」、「強いチームでやりたい」
でもほんとは、歌手になりたい。
そんな気持ちを抱えて新幹線に揺られて、「いざ夢の実現へ」といきごんで上京しますが、
ここからは、夢探しの迷子になります。
夢と現実
挫折の大学時代
高校でのバレーボール部の成績は、県でもそこそこだったこともあってか、大学はスポーツ推薦で行くことができました。
上京した私は、大学の寮で生活することになりました。
もちろんバレーボールを続けるつもりでいました。
ちなみに、女子大です。
入学してすぐ、入部のセレクションがありました。
大学の体育館にいき、ふと周りを見回したときに「春高のメンバー?」と思うほどの身長と、
レベルのちがいに、これは無理だなと思ってしまいバレーボールを大学で続けることはあきらめました。
一つ何かつまずくと、気持ちが後ろ向きになりついてこなくなるもので、もうひとつの「歌手」という、
夢についても考えなくなっていきました。
なぜと言われたら、あきらかに「ぽっちゃり」なことが、
私にとってかなりきがかりなこと、あきらめの気持ちが日に日に強くなっていたからです。
はじめてダイエットを決意する
「歌手になるために、痩せてやる!」そう決意してチャレンジしましたが、結果は
うまくいきませんでした。
何よりも、食べることが好きなだけに、私にとっては、食事制限のダイエットは長くは続きませんでした。
ただ、ここでは、ふれませんがこの後、なんと19キロ減のダイエットに成功します。
そのことついては、あらためて別の機会に、皆様にお話ししたいと思っています。
大学卒業、さてどうする?どうなる?
1日1日が早いもので、大学3年にもなるとそろそろ就職とか、進路を考える時期になりました。
私の夢は遠のいたまま、何もやる気がおきずどうしたものか?そういえば、こういった話は、誰かにしたことはあまりなかったと思います。
もちろん、彼氏もできませんでした。
周りの友人は、進路が決まってあとは卒業をむかえるだけといった
雰囲気になりつつありました。
私は、まだ夢をあきらめきれずにいました。
ただ、どうしていいかもわからなかったのも事実です。どんどん時間だけがすぎていきました。
あらたな夢
男子が苦手で、女子高にいった私に、大学4年のはじめに彼氏ができました。
その彼氏には、料理の修業をして料理人になるという夢がありました。
そして私は、子供のころから料理を作るのは好きだったし、もちろん、お菓子作りも興味がありました。
ということで、若かったなと今は思いますが、パティシエになって彼氏を助けようと、製菓の専門学校に行くことにしました。
その後、残念なことに破局にいたり
パティシエの夢も終わりをむかえましたが、専門学校だけは無事卒業をしました。
彼氏と別れた原因はいろいろありましたが、たぶん当時妹が上京し一緒にすむことになり、一緒にすごす時間が減ったことも関係していたかと思います。
私は、はじめての傷心からぬけだせず
まだ続く、専門学校に通いながら居酒屋でアルバイトをしたり、妹の世話にも疲れ、
最終的には妹と大喧嘩をして同居のアパートを出て、引っ越しました。
介護士になったきっかけ
何もかも終わった日
20代の頃の私は、夢にむかって一直線だったと感じます。
ここまで、やりたいことがたくさんあって・・・バレーボールの選手、パティシエ、歌手、どれも、時間もお金もかけてやってましたが、
やはり現実はそう甘くない、夢なかばで挫折して最終的には何も残りませんでした。
でも、バレーボールはだけは近所の体育館に行って続けていました。
バレーボールを続けてこれたのは、その練習をしているときだけが、何も考えずにいられる唯一の時間だったからです。
現実逃避?なのかもしれません。
そんな冬のある日、準備体操もそうそうに練習をはじめ、練習最後のチーム対抗戦で、
ことは起こりました。
相手チームの選手がフェイントをしたため、ボールを落とすまいと落ちるボールに手を伸ばしレシーブしようとしたのですが、
体は前に一歩もすすむことがなく、「あれ?と不思議に思った」その瞬間
立っていられず、倒れてしまいました。
「何がおきたのか?」わかりませんでしたが、みんながかけよってきて、何かが起きたんだなと思いました。
先輩が私のかかとあたり親指をあて、中に押しこんだ瞬間なんと、
指がズボッと中に入ってしまいました。
そして、先輩のひとこと「切れたね」とそう言われました。
結果、病院に運ばれアキレス腱が切れて全治半年と言われ、ギブスで固定され松葉杖になりました。
夢からさめて、どん底の日々
翌日、朝目ざめて、まず朝ごはん。
当時の私は、上京しており頼れる両親は遠く、妹も喧嘩したっきり、彼氏も別れたばっかりと頼る存在は誰もいない状況でした。
朝ごはん・・・ちょうどパンがあったのでそれを食べましたが、お風呂はしばらくは入らなくても問題ないとしても
食料は、買いに出かけないとなりません。
近所のコンビニまでは、普通に歩いても15分ほどかかります。
松葉杖2本をついて、なれないながらも一歩一歩片道40分以上かかりました。荷物はそんなに持てないので、最低限の買い物をしてと
毎日、一度は買い物に出かける生活に変わってしまいました。
そんな生活が3か月程になり、やっとギブスがはずれたころには外れたギブスの下の足は、痩せこけて骨が出ていたので
松葉杖なしで歩くのに、しばらく苦労しました。
毎日、近所を散歩して、やっとまともに歩けるようにはなりましたが、
すっかり、気持ちもお金もどん底でした。
親の一言が人生の転機に
どちらにしても、実家に連絡をしないとなりませんでした。
あまり負担をかけたくないと、そうも思いましたが色々話をするうちに、「ヘルパー2級の資格をとったらどう?」
そうすすめられました。
その時は、考えたこともなかったので聞き流していました。
ただ、生活していくには仕事につかなければならない、
だいぶリハビリをして、まともに歩けるようになったので「まあ、資格は取るだけなら」と
そんな、軽い気持ちで1週間の講習を経て取得し、その後ハローワークに行きました。
ハローワークの相談窓口で、資格をとって働けるところを紹介してもらいましたが、その際に「この資格だと、今はこの1件しかないよ」
そう言われました。
自宅からは、電車を乗り継いでⅠ時間以上はかかる職場を紹介されました。今は、生活していくためには仕方がありません。
とにかく、生活を安定させなければなりませんでした。
介護士の仕事に魅了(みりょう)されて
私には、当時母方の祖父のみで、同居もしていなかったため、高齢者にかかわるといった経験は一切ありませんでした。
ただ、この仕事につくことにはそれほど不安はありませんでした。
「知らなかったから」というのが、一番ですが、 正直、こんなに長く続くとは思ってもいませんでした。
気がつけば、私は介護の仕事に約20年近く、たずさわることになりました。
- 特別養護老人ホーム
- 老人保健施設
- 有料老人ホーム
- グループホーム
- デイサービス
- デイケア
- 老人病院
などなど、経験は豊富になりました。
ここまでこれたのは、やはり多くの方々にご指導を頂けたからだと思っています。
でも何度も「やめたい」と思いました。
そう思ってみても、気づけばまた、この仕事に戻っていました。
私には、あんなにキラキラとした夢があったのですが、さまざまためしてダメで、
悩んで、何となく「これだ」と言えるものに出会えたといまは、そんな気がしています。
ただ、この数年は病気もあり、 くやしいですがなかなか仕事に戻れずに遠ざかっております。
この白血病=血液のがんともいわれていますが、現在(2020年がん情報サービス)国内の患者数(かんじゃすう)は8200人におよんでいます。
また死亡者数が5200人と、
ただ、この病気になる原因はわかっていません。
そのため、治療も手探りの状態です。
そんな中わたしは介護の仕事にもう一度、もどれるかどうかはわかりません。
今までたくさんのみなさまに、介護という仕事を通して教えていただいたことがあります。
その情報をみなさまに知っていただき、今後の何かしら参考になればと思います。
そして、白血病についてもお話させて頂きたく思っています。
大病をわずらってしまった方々、その方々を支えている方々に少しでも、このブログがよりそう存在になれたら幸いです。
コメント